神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

メトロイドヴァニアとゼルダ?多根清史『ゲーム語りの基礎教養』への不信感

専門外の人が書いた的の外れたビデオゲーム史…なんか定期的に持ち上がってる話題の気がする。

経緯

昨年11月に『ゲームの歴史』という本が発刊されたそうだ。ある人が内容にtwitter上でツッコミを入れたところ、著者本人(『もしドラ』の作者)が絡んできたので世間の目について、結果より詳細なツッコミが岩崎啓眞氏ら専門方面から寄せられている、というのが今現在進行系で起きている。

私は、その問題のゲーム史本を読む気はあまりない。
たぶん、実際に岩崎氏が言ってるように間違いが多いのだろうが、そもそも私自身がそれを論じられるほど詳しいほうじゃない。特にファミコンより前のものは、ツッコミ側の情報すら合ってるのかどうか、かなり調べないとわかんないです。たぶん、合ってるんでしょうが。

だがこの記事で扱うのはその本ではない。その話の間に、多根清史の名前が飛び込んできた。
こちらは専門の人だと言っていいだろう。『超クソゲー』という本で名を上げて、ゲームとか、ゲームから離れてガンダムの本とかも書いてる人。ゲームライターとして20年以上のキャリアを持ち、『教養としてのゲーム史』なんちゅう真面目そうなタイトルの本も書いてる。
その内容の質はさておきだ。

先に言っておくことがある。私は多根清史の個人批判をしたいわけではないということである。

このブログでも数回述べているが、私は多根氏のゲーム知識にかなりの不信感を持っている。まず氏のゲーム歴から外れているタイトルについては、おそらく実体験に基づかない内容がかなりみられる。また、プレイしていても内容がうろ覚えで、ちゃんと確認してなかったりする。
どこまでがそういうタイトルなのか、たいてい記事では明かしていないので、見極めながら読まないと危ない。
もちろんゲーム史を語るうえで、全部の作品をプレイするのは無理があろう。ある程度の不正確な内容も仕方ないとしようが。それでも私よりかなり年上で、リアルタイムで知っていることも多いはずの氏が、なぜか基礎的なことを見逃しているなどを見ると、不信感は溜まっていく。

だが何も、多根氏が常に間違っているとまでは思っていない。合ってることもあります。氏の書いたものより遥かに酷いゲーム史超絶雑語りを、一般書籍で読んだことありますし。
でも、氏に対する不信感も持ってる。
そういう立場ですので、個人批判をしたいわけじゃないが、するかもしれない。

『ゲーム語りの基礎教養』について

多根氏の連載『ゲーム語りの基礎教養』は2016年5月から2018年8月にかけて電ファミニコゲーマーで発表された。

最後でも既に4年半も前のものになってしまったが、割と今でも検索に引っかかってくる記事で、そこそこ厄介に感じている。

現時点で連載最終回となっているのはSRPGについての記事だが、重大な問題として、多根氏はSDガンダムファミコンウォーズの発売順に気づいていない。記事中で絶賛されているファミコンウォーズGUI部分は、先に発売して十分な知名度もあった『SDガンダム ガチャポン戦士 スクランブルウォーズ』そのままであり、ほぼ変化していない。
あの名作『ファミコンウォーズ』の内容の、特に新しくない部分について、不自然に褒めたたえている。
この指摘は、私も以前の記事に書いた。

第1回と第2回については、既に厳重なツッコミを入れているサイトが存在する。

とても丁寧な語り口で、多ページに渡る力作であり、なんと現在も更新を続けておられる。
こちらのサイト、数日前にバズってたっぽい。私と同じ経緯で思い出した人がいたのかも。
PCゲーに詳しくない私の知識で判断しきれない部分があるのは申し訳ないですが、私にも理解できる指摘もかなりあります。
他の回についても別ページで書いておられます。
PCのSRPGについては私より圧倒的に詳しいですね…

多根氏も何も悪意があってこのようなことをやっているのではない。単に知らないのだろうと考える。
だが、こうして現状でも古いゲーム史について大量のツッコミを食らっている多根氏、他人に偉そうに言えるほどの立場であるのか。

こうして指摘が増えてくると、当然「他の記事は大丈夫なのか」という疑念も出てくる。
もう少し、詳しく見てみたほうがよくないか?
3ヵ月前に発刊された本が、著者自身のせいでたまたま目に入ったという経緯でボロクソに言われている現在、私だって何年も前の記事に対して遠慮する必要はないはずだ。

とりあえず、今回は第5回目にあたる記事(2017年6月27日公開)を中心に、気になる点を書いていってみる。

私も比較的わかるメトロイドヴァニアの記事だ。
もう6年も前のもので、ホロウナイトのゲーム機移植もされていなかった頃のものだということも考慮して読む必要はあるが、それ込みでも引っかかる点はかなり多い。

ツッコミの要点

長くなるので、先に要点だけまとめる。

他にも細かい指摘は幾つかあるが、重要な点はこのくらいか。

経験値による「クリア保証」の考え方の誤り

多根氏の書いている通り、月下の特徴のひとつは、ゼルダメトロイドになかった経験値を持ち込んだことだ。
これ自体はあってる。厳密にはドラキュラ2やリンクの冒険に経験値があったというツッコミはできるが、あれらとは扱いが違うとは私も考える。

これが合ってるとして、周辺の記述には引っかかる点が複数ある。主に問題になるのは「クリア保証」という表現だ。

「クリア保証」とは初期ドラクエを紹介する文章などで、ときどき出てくる概念だ。同じ電ファミに、岩崎啓眞氏が詳しく書いている記事があった(2017年3月15日)。

要するにレベルを上げまくればヘタクソでもゲームをクリアできる仕組みが、ドラクエ1にはある、という話を岩崎氏は「クリア保証」と呼んでいる。
ドラクエ1にはアクション性がないし、昔の難しいアドベンチャーゲームほど頭を悩まさずともクリア可能。
これ自体は昔から聞く話で、適切な説明です。岩崎氏も次の回(2017年9月5日)で書いている通り、厳密にはホイミの使い方を知らないとクリアできないなどはあるが、そこまで厳密な話をしてもいない。

この考え方は昔からあるもので、多根氏も似たようなことは過去の回で書いているが、おそらく岩崎氏の記事を読んだことで「クリア保証」という言葉に言い換えたのだろう。出典を示してないからわかんないが。

だが岩崎氏も、別に経験値のある全部のRPGがそうだと言ってないことには注意したい(当然、岩崎氏もそれはわかっておられました)。個人的にもドラクエより後発で例外と思われるRPGは思いつくし、アクションRPGとして見た場合の『月下』もそうである。

すぐわかるのは、『月下』では経験値がそれほど救済策になっていないことだ。
月下の夜想曲は敵とのレベル差によって経験値が増減する仕組みがあり、適正レベルまではすぐ上がるが、それを超えると1しか得られなくなる。事実上、攻略段階ごとにレベルキャップがかけられている状態にある。
それにレベルアップによる成長自体も、数レベル上げる程度ではそれほど大きな差とはならない。アルカードはレベル上がっても新しい魔法を覚えたりしないし。

試しにレベル50のアルカード(ゲームクリア済み)を、

レベル60まで上げてみた。
HPとパラメータはかなり増えており、一定の成長は実感できるが、防御力は1しか増えていない。
ファイナルガードから81ダメージ食らっていたのが、80ダメージに軽減されるだけの差だ。攻撃力もあんまり増えてないぞ。10レベルも上げたのにそんな程度か…
月下はパラメータ上限自体はかなり高いので、経験値1を永遠に稼ぎ続ければ話は別だが、「コウモリだのルーラーソードだのを数万体倒せば強くなる」を実行することなど考えたくもない。

>それは装備のカスタマイズや戦略を考えないプレイヤーでも、「時間」が「強さ」に等価交換できるシステムを意味している。

多根氏はこのように言っているが、『月下』では装備によるカスタマイズはゼルダメトロイド以上に重視されている。そんなん、一度でもプレイすれば明らかなはずだが。

もちろん経験値が1になるシステムは結構わかりにくいので、1回クリアした程度では見逃すかもしれませんよ。
でも装備カスタイマイズはこのゲームの根底にあるものだ。見逃しようがない。

同じレベル50のアルカード、レベルを上げなくても、固い装備に切り替えるだけで防御力は42も上がった。レベルも無意味ではないが、明らかに装備による強化のほうが大きく効いている。
ただし、装備を変えたのでSTRやINTは減っている。それに、ここまで強い鎧とアクセサリーの入手、ウォークマスターの強化やブリーシンガメンの回収には知識がいる。
どういう装備を選べばいいか、突き詰めていくとプレイヤーの考えることは増える。

ファイナルガードを倒しまくる方法でレベル60まではすぐ上がる。
ここから経験値補正を考慮するとレベル70くらいまでは我慢して上げられると思うが、装備の強化と違って、膨大な時間に見合うほどの効果はおそらくあるまい。
そこまでしなくても装備変えればレベル50でクリアできるゲームだし、飽きます。
というかファイナルガードをサクサク倒すの自体、攻略知識が必要。
どこまで行っても知識が必要で、これを経験値ひとつによるクリア保証などと単純化はできない。
過去作と比較したアクション性の低下という意味では「クリア保証」はあるが、月下の夜想曲のゲームバランスを「経験値」という一つの要素だけで説明してしまうことは、極めて不十分である

メトロイドゼルダと比較した『月下』の違いは、難易度を調節をする仕組みがたくさんあったことだ。それは単純なレベルによるパラメータの上昇だけではない。
強力な装備や魔道器の取得、武器や防具の属性による敵との相性、金を稼いで回復アイテムを買ったり、さらにはコマンド入力の必殺技の存在。
経験値も、レベル60まで簡単に上がることを考えると、難易度調節の一つとしては十分に意味がある。
極めつけがヴァルマンウェとアルカードシールド。これらの存在を知ってさえいれば、後半の難易度は激減する。
これらを合わせることで、ドラクエ1の「クリア保証」以上に救済作用は働いているのだが、そこにはアクションの腕は必要なくても、蓄えられた知識が求められる。
じゅうぶんに複雑なゲームなのである。
ゼルダメトロイドとは一線を画する月下の夜想曲RPG性の強さ、ここに影響しているのは明らかにドラクエより後の流れにあるもの、SFC時代のファイナルファンタジーのような後発のRPGの系譜だ。
盾の代わりに二刀流とか、属性攻撃の吸収とか、そのまんまFFみたいなシステムを月下は採用しているんだから、『月下の夜想曲』は、立派に国産RPGの系譜に乗っかっているタイトルなのだ。
なぜその流れを無視して、ドラクエ1程度の単純な仕組みでの経験値の話をしているのか。

※そういや武器の属性によるダメージ変動はメトロイドプライムより前にスーパーメトロイドにもあった。ボス戦でもミサイルよりチャージビームのほうが有利なケースがあることを考えると、メトロイドにもRPG的な難易度調整の仕組みが少なからず働いている。

RPG要素により、さまざまな方法で難易度を下げることはできるが、やはり月下はアクションゲーム。強化してもボスのダメージは…まあ月下の場合は上記ガチガチの装備ならボスの攻撃でも1桁まで下がったりするが、基本的には、アクションの腕は必要になる。
メトロイドゼルダと違って敵を倒しても回復アイテムあんまり出ないし、セーブがやたら遠いエリアとかあるし、トラップ地帯とかあるし、ヴァルマンウェとか出るのはゲーム後半の話だから、途中までは普通に努力して行くしかない。
異常なレベル上げをしない限りは、スーパーメトロイドと同じ程度のアクションの難易度は普通にある
『月下』に関しては「クリア保証」の考え方は、全く働いていないわけではないが、用例として適切ではない。

一方、ゼルダの伝説も経験値はないけど、敵を倒せばお金が手に入り、強い盾や回復アイテムを入手することができる。
これはメトロイドにはない重要な差異というか、メトロイドだから無いのだゼルダには、最初からあるでしょ。

>それは任天堂的な「厳しさ」からの訣別だった。「クリア保証」しない作りは、任天堂への信頼、ブランド力の強さがあってこそ成立する。初代『ゼルダ』や「メトロイド」から10年を経た後、「キャッスルヴァニア」シリーズが広い人気を勝ち得たのも、「経験値」による間口の広がりが大きかったのだろう。

多根氏はこのように不自然な結論で締めくくっているが、月下をはじめ悪魔城はこのような厳しさからの訣別など、していない。月下は間口を広げる様々な試みを行ったゲームであるが、だからと言ってメトロイドよりハードルが低いジャンルになったかのように書くのは誤解を招く。
ここは後述するIGAの講演の説明の時点でよくない。多根氏はそれを読んで反映してしまった可能性が高いと考える。

そして、この言い方は月下ではなく、メトロイドゼルダのほうにも影響する。ディスクシステム時代ならともかく、神々のトライフォース』や『スーパーメトロイド』はそんなに厳しいゲームじゃない。「任天堂的な厳しさ」などという、それ自体が偏見に近い、曖昧な概念だろう。
まるで任天堂ゲームが月下の夜想曲より難しいアクションのように誤認させてしまう。

メトロイドヴァニアの難易度については、ホロウナイトやサムスリターンズ、メトロイドドレッドといった、この記事以降に台頭してきた高難度作品は厳しくても普通に受け入れられているし、それらを引き合いに出すまでもない。
まず月下以降の探索悪魔城が『サークルオブザムーン』から『奪われた刻印』へと、かなりの高難度作品を出していたこと、多根氏は知らないのだろうか。
これらは月下の後半がヌルすぎた反省なのか、チートアイテムの削除と単純な難易度増強を行う一方で、大量のスキル、レベル以外の成長要素の導入と、よりマニアックにRPG路線も深めていってるのだが、多根氏はたぶん詳しく認識していない。キャッスルヴァニア」シリーズが広い人気を勝ち得た、などと言えるほど悪魔城事情に詳しいと思えない。

※後期悪魔城は難易度が上がる一方でレベルによる経験値補正は撤廃され、単純なレベル上げはやりやすいようになっていった。

月下のマップシステムは新しくはない

>初代『ゼルダ』やスーパーファミコン用『神々のトライフォース』では、スタート直後から(前者ではマニュアル上で)マップの全景を見ることができる。大まかなダンジョンの場所や地形は隠されておらず(そこに至る謎解きはある)、探索はともかく「埋めたい」というプレイヤーの欲求は、きれいに切り捨てた作りになっている。

多根氏はゼルダとは違う、月下のマッピング機能について言及しているのだが…
これも多根氏が忘れていたと考えるしかないのだが、月下と同等のマップ機能は『スーパーメトロイド』に既にある
スーパーメトロイド』には、未踏破エリアのマップを入手したうえで、実際に踏破した場所は色が変わっていくという、2段階のオートマップ機能があり、やがて惑星全域の巨大なマップが完成する。
現在のメトロイドヴァニアでは当たり前に見られる仕組みだが、これはスーパーメトロイドで早々に完成していたものだ。
月下でやってるマップ機能は、ほとんどスーパーメトロイドの模倣に過ぎない。マップについて『月下』で明確に追加された要素は多根氏の言う「探索済みのエリアのパーセンテージ」ただひとつのみだ
確かにスーパーメトロイドをはじめ、メトロイドではマップの踏破率は記録しない設計を取っている。スーパーメトロイドには埋めない前提の「広いだけの空間」などがある。ここは違う。
対して、マップの達成率を記録する探索悪魔城の場合は、そうした空間を少なくしている。だがマップ機能自体は、ほとんど同じだ。
>「集まってないコレクション(未踏破エリア)への欲望を掻き立てる」
ここに少々の改善はしているともいえるが、決して新しい発想でもない。

では『スーパーメトロイド』が新しかったのかというと、実はそれも違う。踏破エリアのオートマップ機能は初代『ゼルダの伝説』にもうある
ここに多根氏の記述のマジックがあったのだが、外のエリアのマップは多根氏の言う通りの仕様なのだが、ダンジョン内のマップは別で、初代ゼルダの時点で全体マップと別に、踏破したエリアが埋まっていく仕組みを採用している。ダンジョン内でマップを取得すると未踏破エリアも見えるようになる。機能としてはスーパーメトロイドと遜色ない。
大きな違いはオートマップの対象が世界全体に広がっているかどうかくらいだ。
しかも初代ゼルダに関してはマップの形がはっきりしているという遊びが仕掛けてあるため、スーパーメトロイドと違い、埋めるモチベーションも与えてくれている。
ゼルダ中心史観の記事なのに、これを忘れてたのだろうか(私も確認するまで忘れてましたがね)。

ついでに細かい指摘になるが、
>初代『ゼルダ』やスーパーファミコン用『神々のトライフォース』では、スタート直後から(前者ではマニュアル上で)マップの全景を見ることができる。
正確には初代ゼルダのマニュアルに載ってるのはレベル2までの地図のようですね。ROM版『ゼルダの伝説1』には、不完全ながら世界全体の大きい地図が別に入ってましたので、そっちの記憶かも。

>そもそも、なぜ初代『ゼルダ』が「行ったり来たり」の構造になったかといえば、限られたデータ空間の中で最大限の広さを体感してもらうためだ。

こう断定形で書いてる。これ自体は本当っぽく思える情報だが、これのソースがどこにあるのかは、私には不明…

IGAの2014年の講演との比較

多根氏の言う「集まっていないくやしさ」メトロイドにないのかというと、マップではなく、アイテムの入手率を示す仕組みがあるのは有名だ。
アイテム周りのシステムの違いによるものだろうが、月下以降の探索悪魔城ではアイテム回収率は記録しない。

>「集まってないコレクション(未踏破エリア)への欲望を掻き立てる」方向
それは結局スーパーメトロイドがやっていたことの亜流に過ぎないではないか。メトロイドIIまでには、ないが。
メトロイドヴァニアの話をしているのに、なぜスーパーメトロイドの知識があやふやなのだろう?
記事は初代メトロイドのジャケットを載せてるだけで、ゲーム画面の一枚も引用していない。

この「集まっていないくやしさ」という表現、実はIGAが用いたものである。

[GDC 2014]ゲームの開発は人に始まり,人に帰結する。五十嵐孝司氏が「悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲」の裏側を語ったセッションをレポート (4gamer.net)

この講演のレポートは他サイトにもあるが、多根氏はこちらの4gamerのレポートを読んでいたと思われる。引用元として記載していないが。

>また,モンスターの図鑑やマップの探索パーセンテージといった要素も用意して,プレイヤーに「集まっていない悔しさ」を感じさせ,より長くプレイしてもらえるように仕向けたという。

こう書いてありますね。
要するにこりゃIGAの言い方が良くなかったのか、講演のレポートが書きそびれてるだけなのかわからないが、メトロイドのアイテム発見パーセンテージのことを言い忘れてる。
もちろん、それを考慮しても月下のほうが圧倒的にコレクション要素は多いので、IGAの言い方は完全な間違いではない。微妙なところです。
その微妙なところを、多根氏が絶妙に選び出して、もう少し不適切な感じにアレンジしている。
ちなみにIGA氏はこの講演でゼルダのことを述べているが、この部分は普通にメトロイドとの比較として述べているので、やっぱりゼルダだけでなくメトロイドも強く意識してたことがわかります。

IGAの講演と比べると気付くことがもう一つある。なぜか多根氏はマップ機能にばかり注視して、もう一つのコレクション要素であるモンスター図鑑のほうを詳しく書いていないが、こちらはメトロイドと全く違う、膨大な時間のかかる要素になっているのだ。

敵のパラメータ、弱点、耐性、ちょっとしたフレーバー、落とすアイテムまで記録される魔物図鑑が、月下の夜想曲には存在する。
敵を全部掲載するだけなら大して難しくないが、アイテム欄を埋めるにはこのゲームの大量レアアイテムほとんど全部を落とさせる必要があり、コレクションを促す要素として十分以上に機能している。ここはまさにIGAの言う通り「集まっていない悔しさ」を体現する強力な機能なのだ。

言ってもこの魔物図鑑、発明というほど新しいアイデアでもなかったとも思う。
しかし当時の代表的なRPGドラクエ6FF7にはモンスター図鑑はまだないのだ。
月下はポケットモンスターのわずか一年後のゲーム。あるいはいち早くポケモン図鑑を意識したタイトルなのかもしれないし、たまたま近い時期に似たことをやってるだけかもしれない。
だが、RPGの最大手でもまだ一般的でなかった図鑑機能を悪魔城がいち早く実装した事実、軽視はできないと思う。私もこの記事書いてて初めて気づいた。

というかカプセルモンスターって、これ自体ポケモンネタか?いや源流のウルトラセブンカプセル怪獣か?

ここで紹介してきた経験値、モンスター図鑑といったRPG的な仕組みは、あくまで『月下の夜想曲』の特徴だということも注意したい。
その後発達していったメトロイドヴァニアでも同じシステムを採用しているタイトルもあるが、してないものもある。達成率はよく採用されているが、作品によってはメトロイド寄りで、マップの完成度と無関係だったりもする。
2017年当時のメトロイドヴァニアが今よりは少なかったとして、だからといって『月下の夜想曲』固有の事情をジャンルの話として一般化するのは、これも適切でないだろう。

オープンワールドメトロイドヴァニアの後継者』という根拠のない言説

>そして2017年現在、この「行ったり来たり」や「集まっていないくやしさ」といった手法を受け継いでいる、花形ゲームジャンルがある――そう、「オープンワールドゲーム」【※】だ。

と書いているが、メトロイドヴァニアオープンワールドの関連性について、この3行以上の根拠がどこにも示されていない
多根氏の上げた共通項は「行ったり来たり」と、何らかの収集要素の存在の2点みで、あまりにも漠然としすぎている。
これは初代ゼルダの伝説や初期ドラゴンクエストでも通じそうな、ゆるい共通点ではないか。
オープンワールドってジャンルも対象が広すぎる。メトロイドっぽいオープンワールドもあるだろうし、そうじゃないのもあるだろう…

またメトロイドヴァニアの『Axiom Verge』にファストトラベルがない、という話をしているが、それはこのゲームにないというだけの話でしょうね。
確かにメトロイドにもワープ機能はないが、月下の夜想曲』にはゼルダの伝説の程度のワープ機能はある。うん、初代ゼルダにもありますね。
メトロイドにはない、これもメトロイドだからないのだな(サムスリターンズ以降にはある)。

確かに悪魔城のワープ部屋はファストトラベルと言えるほど無制限で便利な機能ではないが、そこはオープンワールドメトロイドヴァニアの差として強調して書くようなものでもない。そういう機能がないタイトルもあるという、それだけのことだ。
無駄に移動を引き延ばすような仕組みは月下では取り入れていない。
いや、そもそもオープンワールドと比較すること自体が何でなのかわからない。一体この記事は何の比較をしてて、私は何に対して反論してるんだ?
オープンワールドの話をする前段階で、2Dアクションのメトロイドヴァニアの話をする必要は、ないでしょ。
あるいは、あったとしても、この記事で多根氏はそれを示せていない。

※『Axiom Verge』、私は知らなかったタイトルだが、同時期(2017年2月)に多根氏が別サイトでレビューを書いてる。

Axiom verge:名作“メトロイド”をリスペクトした2Dアクション|ガレリアPCゲーム探訪記 第6回|ドスパラの○○ (dospara.co.jp)

ワイヤーアクションが『ヒットラーの復活』と似てるというのだが、機能は少し違うがグラップリングビームの名前が出てもこないのは、氏のスーパーメトロイドの記憶があやふやな裏付けじゃないかと思ってしまう。

BotWはよくわからないけど

多根氏がオープンワールドの話から引き合いに出しているゼルダBotWについては私はさっぱりわからないので、多根氏が書いてることがどこまで正しいかもわかりません。これはちゃんとプレイしてるようですし、大幅には間違ってないとは思いますが。
…だが、これは初代ゼルダの伝説を意識した作品だということ、そこはプレイしてない私も聞いたことあるぞ。

「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」が実現した“かけ算の遊び” - GAME Watch (impress.co.jp)

この記事などで言及している通り、初代『ゼルダの伝説』こそ現在で言うオープンワールドにも通じる内容なのだ。ほぼ初期状態で行ける範囲が非常に広く、攻略順もかなり自由が効く。
それに対し、2作目『リンクの冒険』以降のゼルダシリーズでは、攻略順に強い制限をかけるようになった。よりオープン的なマップを導入した『時のオカリナ』においてもだ。
もちろんゼルダシリーズには脇道のイベントはたくさんあるし、少しならメインルートの順序の変更も効くが。
オープンワールド」と言い張れるほどの自由度の高さとなると、これは1作目だけの特徴だった。それを取り戻したのがBotWだ。そういうふうに聞いてます…
この経緯はオープンワールドゼルダ論で飛ばしていい説明なんでしょうか。

メトロイドヴァニアとのつながりで言うなら、多根氏の説明を読んでもBotWはエネルギータンク収集するメトロイドみたいな成分があるゲームなんですね、くらいの感想しか言えない。それはメトロイドより前の初代ゼルダの伝説からあるものですね…

メトロイドの特徴って、ゲームの進行による単純なパワーアップだけじゃなく、ボム、ハイジャンプといった新しい能力による移動範囲の制限解除であり、オープンとは真逆の序盤戦から、どんどんオープンになっていく過程にこそあると思うんですが。
多根氏はこのメトロイドっぽさの部分を、「その過程でプレイヤーキャラを強化し、移動できるエリアの範囲を徐々に広げていく。」くらいしか書いておらず、記事を通してちゃんと説明していない。
まあ、厳密にはメトロイド2のように、この仕組みが比較的弱いものもありますが。
この記事、『メトロイド』の説明が少なすぎて、ただ強化要素があるアクションゲームみたいな表現になってしまっている。
具体的に「ハイジャンプを取ると行ける範囲が広がる」とか書いていないため、論理が飛躍して見える。メトロイドを知らない人に向けた基礎教養じゃないのか?
この条件が当てはまらないメトロイドヴァニアのことを考えて記述が曖昧になってるのか、単に書き忘れてるのか…

この記事の全体を読んでもメトロイドヴァニアゼルダBotWのつながりは、私には見えなかった。
月下も昔のゼルダに影響を受けてるだけあって、似てるところもあるゲームですね、というだけのことだ。
なぜ2Dアクションのサブジャンルと認識されているメトロイドヴァニアの話を、国産RPGの話で触れる必要があったのか。しかも悪魔城もゼルダメトロイドもあやふやな知識で。

突然の聖剣伝説2

記事はここで急に話が飛んで、聖剣伝説2について述べている。これは記事中でもメトロイドヴァニアとは関係なくて、ゼルダの伝説のみと結びつけている。
話はだいぶ飛んでるが、そんなにおかしなことは書いてないとは思う。
なぜ話を飛ばして聖剣2を書いたかという疑問は、かなりある。

少々はおかしいこともある。石井浩一氏の発言「誰もが最後までストーリーを堪能できるシステムにする」が出典なしで引用されているが、ソースはここですね。

人のフィルターがゲームを形作る。「聖剣伝説 RISE of MANA」プロデューサーの小山田 将氏とシリーズ生みの親である石井浩一氏へのインタビュー (4gamer.net)

なぜ多根氏はこういったソースをことごとく明示していないのでしょう。石井氏がこのインタビューで言ってる通り、初代ゼルダの伝説は割と難しいのだが、これは初代とか『リンクの冒険』の事情だ。3作目『神々のトライフォース』で劇的にやさしくなっている。だが、聖剣伝説1の当時はまだ発売してなかったので、石井氏はこのことを言っている。
…ところで、このインタビューを読むと多根氏の言う経験値でのクリア保証の概念については、石井氏は特に語ってないようだ。
一応言っておくと経験値だけが理由じゃなく、聖剣1を初代ゼルダと比べると単純にアクションとしても易しい。
月下の話と全く同じになるが…聖剣1のクリア保証は「経験値」ひとつで済むことではない。もちろん聖剣1の経験値による成長システムはよく効いており、レベル上げもやりやすい。
だが他にも回復アイテムの入手がゼルダより容易だったり、ケアルが割とすぐ手に入る、遠距離攻撃魔法も早期に覚える、敵の動きがゆっくりでかわしやすいなど、新しい仕組みを取り入れただけでなく純粋な難易度が低い

どうも多根氏は「経験値」というイノベーションひとつにとらわれており、振り回されている。その他のRPG的な仕組みの数々への認識不足もあるが、単に難易度を下げるという基礎が多根氏の書いたものからは抜け落ちている。
イノベーションは大事だが、その思い付き一点突破を野球の試合で実践するアニメがあったら、そりゃ変でしょ。
もしドラ』(アニメ版)の記憶がこんなところで関わってくるとは思わなかった。

さて初代ではなく、またゲーム内容の違う『聖剣伝説2』の話だ。多根氏の言う通り、確かにリングコマンドは優れた発明だ。画面を切り替えずに時間だけ止めて魔法やアイテムを使用できる。
だが装備の変更はできるが、「ステータス確認」「ボタン配置のエディット」までは同じ画面じゃできないぞ。このへんもリングコマンドから呼び出せるが、呼び出すと普通に別画面に切り替わる。

多根氏は聖剣2などでダメージにランダム要素があることを重視して「アクションと非リアルタイムRPGの融合」と書いてるけど、これより古いリアルタイム性を持ったRPGの存在、FF4やダンジョンマスターの話はスルーしていいのだろうか。聖剣2はRPGとしての難易度は割と高めだが、純粋なアクション性は控えめで、プレイ感はATBのFFのそれにだいぶ近いように思う。

メトロイドヴァニアの話する必要あったか

記事のまとめ部分は、特にツッコミ所はない。
様々な異質さが出会い、反発し、溶け合った「掛け算」…結論だけ読めば、明確な間違いはないし、ぱっと見で割といいことが書いてあるように見える。
その前提として、掛け算合体の象徴みたいな聖剣伝説2の話をしたかったのかもしれない。
誤解を含む記述まで入れてのメトロイドヴァニアの話は必要だったかということであれば、全くなかったと言わざるを得ない。

この記事、ゼルダの“子供”としての「聖剣伝説」と「メトロイドヴァニア」――子孫の業績をBotWはいかに回収したか?」というタイトルを見ると、「メトロイドヴァニア聖剣伝説のそれぞれからゼルダBotWにつながる要素があるんだな」と普通の読者は思うはずだ。
実際に書かれているのは、ゼルダの伝説から派生した作品『月下の夜想曲』と『聖剣伝説2』と、ゼルダ最新作BotWが、源流がゼルダという弱いつながりだけを根拠に、何となく並べられているだけだ。
聖剣伝説は最後の結論に近いタイトルだが、ここからBotWに反映された要素は、具体的なシステム、アイデアはひとつも紹介していない。

だがゼルダBotWと聖剣2、個々のゲーム語り自体はできてる。これらを知ってる読者は何となく満足してしまうかもしれない。そういう雰囲気を何となく出すことはできている。
>「初代ゼルダの子孫たち」のノウハウを回収して、とてつもない存在になった『ゼルダBotW』がある。
そう言われたら、何となくそんな気もしてくるか?
だいたいのものが「何となく」だ。

だが『月下の夜想曲』については、おそらくちゃんと覚えてない。
何となく、おかしい。過去の発言から、多根氏は月下をプレイしたこと自体はあると判断できたため、余計困惑する。
もしくは、月下に至るまでの基礎の道をいろいろご存じないので、どこまでが月下の発明かよくわかってないのか。
そんな感じだから経験値の一点突破で乗り切ろうとして、詳細に踏み込んで書いてないのではないか。

なぜここで国産RPG史を終わらせるのか

これらツッコミとは別に、大きな問題がひとつ。この記事が国内RPG史をここで終わらせてしまっていることだ。第2回まででドラゴンクエスト1までの道をたどり、第3回からゼルダイース
端的に言うが、ファイナルファンタジーポケットモンスターに触れない国産RPG史など、この21世紀に成立するのだろうか?それも基礎教養などと称するものが。
あれら超巨大シリーズも所詮は初期ドラクエが完成させた基本の派生作品に過ぎないから基礎教養から外れる、触れなくてもいいと、本気で思ってますか?
あれらにはイノベーションがないとか?

この連載自体はおそらく完走しておらず、何らかの事情で中断したものと考えている。特にアクション系はスーパーマリオはじめ、ビデオゲーム史の中で当然触れるべきものにろくにタッチしていない。
だが、RPG史についてはここで最終回と書いているので、これ以上他のRPGに触れる気が端から無かったこともわかる。
ポケモンは多根氏の言う「基礎教養」に含まないのだ。

ドラクエだって、丁寧には追っていない。ドラクエ2ドラクエ3へと至る大きな進化、むしろ堀井氏が親しんでいたウィザードリィ寄りの内容への回帰の歴史。
内容の複雑化を、容量の増加だけでなく、ファミコンユーザーの成長すらも見越して実行した堀井雄二の先見性。
そんなドラクエ3より先に職業システムを採用していたファイナルファンタジー
そして、おそらくFFの影響を受けてきているSFC以降のドラクエ。その他の有名RPGの数々。
これらを現代の国産RPGの話題で無視していいとは私にはとても思えないが、連載はここで終了してるので、基礎教養はドラクエ1で終わり。

私の考えでは『月下の夜想曲』も国産RPGの系譜に連なる作品であり、しかもそれはドラクエでもゼルダでもなくFFの系譜に見える。それ以前にベースに悪魔城シリーズの積み重ねがある。
聖剣伝説ゼルダである以前に、もっとモロなファイナルファンタジーの血筋だ。そこも説明しないのか。
ゼルダの伝説だって、BotWの話をするときに時オカからスカイウォードまでの全部のゼルダはスルーしていいとは、とても思えない。

この回はゼルダ論というかBotWを書きたいという願望と、メトロイドヴァニアというバズワード的なものへの意識だけが先行して、基礎と細部の両方の確認がおろそかになってるのではないかと考える。

「基礎教養」への道

個人的な話をすると、私はポケモンをよく知らない人だ。あんな世界中で売れまくってる巨大なシリーズをだ!
世界で数千万本売れているポケモンゼルダBotWもやってない私は、一般的なゲーム好きのレベルにも達してないユーザーであり、基礎教養の範囲を決めるだけの力はないのだ。
だから私はポケモンを語ることは(あまり)できない。多根氏がポケモンに触れない理由として妥当なもんがあるのかどうかも、わかんない。
触れないだけの理由はあるのかもしれないし、ないかもしれない。
やってないから知らないだけなんじゃね?という印象は限りなく持つが、どうだか知りません。

基礎教養、教養なんて高尚な言葉で決める必要があるのかもわかりません。
私はポケモンを知らなくても悪魔城の話はできる。
魔物図鑑の説明するときに「それはポケモンが先にやってる」とかマウントを取られるのがイヤだったら、基礎教養として知ってる必要はあるかもしれませんが、私は別にそういう仕事じゃないし。
これって、マウント取り以外に何か使える概念なんでしょうか。

メトロイドヴァニアに対する認識

最後に書くこれは多根氏ひとりに対する話ではない。
メトロイドヴァニアって言葉、それ自体がどうも誤解を招いているんじゃないかと考えている。

ひとつ例を挙げると、月下の夜想曲より遥かに前の『へべれけ』(ヨーロッパ版タイトル『Ufouria: The Saga』)は、現在メトロイドヴァニアと認識されていることが多い。メトロイドヴァニアという言葉、由来はともかく、もともと少数あった2D探索アクション、メトロイドみたいなゲーム」にも適用されている。
つまりメトロイドヴァニアとは「月下の夜想曲みたいなゲーム」のことではなく、もとからあったジャンルに後からついたジャンル名だということだ。
現状そのように使われていると、私は認識している。

…じゃあ、ヴァニアのもたらした成分は重要でないのでは?

そうとも言いきれないのは、実際にヴァニアっぽさ、メトロイドよりもファンタジー寄りの世界観であったり、近接攻撃主体、ボスをノーダメ撃破できるといった悪魔城側の特徴も少なからず受け継がれていることによる。月下のもたらした影響はやはり大きい。
一方で、悪魔城の影響があっても経験値は無かったり、ライフも桁が少なくて昔のゼルダくらいしか増えなかったり。何でもかんでも広めてはいない。
コレクション要素やストーリー性はメトロイドプライムの印象のが強かったりとか。

私もメトロイドヴァニアのジャンル全体には特別詳しいほうでないので、個々のタイトルの事情となるとわからない。
ただ少なくとも悪魔城ほどのRPG要素の強さは、メトロイドヴァニアの要件には入っていないとは考えている。
あるいは、メトロイドらしい必要もないのかも。
だがメトロイドヴァニアという言葉は、まるで悪魔城要素が必須であるかのように錯覚を生じてしまう。

そして、国内でのメトロイドと悪魔城、両方の知名度の問題。
海外でメトロイドヴァニアという言葉が広まる中に大きな誤解はなかったと思うのだが、国内に言葉が入ってきたときに、この記事のようにどちらか、あるいは両方があやふやな知識で広められたのではないか?
入手困難になってる後期探索悪魔城ならともかく、『スーパーメトロイド』の内容が妙に知られてないと感じる事例。
メトロイドヴァニアの基礎のほぼ全てはスーパーメトロイドでできてたはずだ。さらに多数のRPG要素を持ち込んだ月下でも、その基礎部分は劇的に変わったわけじゃない。

そういう思いを、以前記事に書いた。

メトロイドヴァニアの由来について、「当時のメディアが作ったと言われている」と多根氏は書いている。これは諸説あるというか、2017年時点では特定されてなかったかもしれないし、そんな重要な話でもないのでまあいいとしよう。
私も2021年にゲーム史研究家のhally (VORC)氏のツイートで知ったのだが、どうやら個人が作ったものがどこかで広まったものらしい。
その由来や経緯はまあいいとして。

>正しくは「ゼルダヴァニア」だと言う人もいる。

多根氏はこのように書いているが、事実として、そんな人は見たことがない。軽く検索したものの日本語でそう主張しているのは多根氏ただ一人しか見つからなかった。

英語圏ではどうかというと、問題のIGAの2014年の講演が出てきた。

'Metroidvania' should actually be 'Zeldavania' | Engadget
メトロイドヴァニアゼルダヴァニアであるべき」というタイトルだが、中身を見ると日本のレポートと同じ内容で、IGA氏はゼルダの影響を述べてはいるが、「ゼルダヴァニアと呼ばれるべき」という発言は載っていない。
日本語の記事でその言葉が出てないことを考えると、実際に講演でこのようなことは言っておらず、記事を書いたライターが言っているのだと判断する。
こんな感じである。ゼルダヴァニアだと言う人は、いるかいないかなら、いる。他にも数箇所での使用は確認した。

IGAの講演の発言から、『月下』がメトロイドよりもゼルダを意識していたことは確かだ。この事実自体も多根氏はソース無しで書いてるが、間違いではないらしい。
間違いではないとは思うんだが、講演の直前にコナミを離れていたIGA氏個人から出てきた発言でもあり、他のスタッフみんなそう思ってたのかは知らないよ。
それにIGA氏自身メトロイドも当然わかっており、全く意識してないわけではなかった。

『月下』がゼルダを意識していたのが間違いではないとして、ジャンル名がなんやかんやでメトロイドヴァニアで広まったのは事実だ。
それに、『月下』以外の後継作には明らかにメトロイドを意識してる作品が多数存在する現状(多根氏自身がそれを紹介しているではないか)、「正しくはゼルダヴァニア」などと月下ひとつの事情に合わせた改称は混乱を招くのみであろう。

また多根氏の記事は月下のことを全て「キャッスルヴァニア」に統一しているが、日本語のキャッスルヴァニアは3Dタイトルを含めた一部でしか使われていないタイトルなのはさすがにご存じだと思うが。
探索型2D悪魔城7作品のうち、キャッスルヴァニアは途中の2作だけだ。月下の夜想曲も「悪魔城ドラキュラ」だ。些細なことのようだが、日本人向けの基礎教養として、ここも既に違和感がある。
英語の表現に合わせているのかというと、英語でのCastlevaniaは、これは悪魔城シリーズ全てのことで、当然探索型に限らない。月下ひとつに言及するならサブタイトルのSymphony of the Night(SotN)を使う。これはCastlevaniaの人気が高い英語圏でこそ丁寧に使い分けられている。日本でも月下の話をするのなら、月下と言うのが普通です。

今後

とても疲れた。不毛です。この記事を書くのに何日もかけているし、誰も原稿料を払ってはくれない。私はただの素人だからな。
ほぼ多根氏の確認不足を私が確認し直すだけの作業で、結局は細かい揚げ足取りみたいな内容が多くなった。この記事も大した反響は得られまい。何のためにこんなことをやっているのか。
私のスイッチが入ったんだから仕方ない。取られるだけの揚げ足はそこにある。

この記事を書いたおかげで気づけたこともあったし、なんか書いてる途中で偉い人からtwitterでコメントもらえたりして、悪いことばかりでもなかったとは思うけど、不毛だ。

はっきりした動機を最後に書くが、このような雑語りが、そこそこのメディアに掲載されていること、それ自体が、大手出版社にゲーム史を書かせる原動力になっているのではないか
果たしてこの現代にまともなゲーム史は存在するのか、それはわからないが、この『ゲーム語りの基礎教養』は明らかに違うし、検索すると結構目立つ位置に出てくる、しかも内容も古い。2017年当時でも月下の夜想曲とか古すぎるだろ。
そして細かい確認不足が目立つことからも、かなり適当に書いてると言わざるを得ない。
こんなものが目に付いたらスイッチの入る編集者や作家もいるでしょ。その人たちが正しい歴史認識を持ってるかは別として…

改めて言いたいが、人のこと言えんのか
こういう適当に書かれて無料で読めるものこそ真面目にツッコミを入れないといけないんじゃないのか。
著者と出版社にツッコミを入れる前に、ご自分が参考文献として紹介されるようなものをお書きになられてはどうなのかということだ。

出版社と編集者はゲーム史を執筆する企画は通すが、その内容までは精査できまい。本来はそれができるべきなのだが、ゲーム専門の電ファミの編集者がこんなんを通すんだから、講談社にそれを期待するのはナンセンスだ。
それっぽい人がそれっぽいことを、それっぽい媒体で言ってれば、専門じゃない編集者や適当な読者には正しく見えるだろう。これは地獄である。
多根氏もそうした地獄を作り出すレベルの年齢までライターとしての実績と共に生き残ってきたということであり、そこは素人の私とはレベルが違うのである。普通に見てアニメの原作者とかよりはゲームのことに詳しそうだし。
だが実態は、このレベルは、とても困る。
私は多根清史を正しく評価していなかったのかもしれない。少々間違ってるくらいであれば、どうせ真面目に書いてないだけでしょと流してきたが、もっと真剣に指摘をしていくべきではなかったのか。

悪魔城とメトロイドは私の得意分野のため、試験的にこの第5回目に絞ってツッコミを入れてみたが、この回だけでも悪魔城とメトロイド以外の問題点がかなり浮かび上がってきた。
当然、他の回の精度も大差あると思えない。
氏の著書『教養としてのゲーム史』(2011年)も、図書館でちらっと目を通してみたが、幾つか不審な記述が見つかったし。丁寧に読んだら大長編になってしまう恐れがあるので、やめておきたいが。

基礎教養の他の回、あるいは他の多根氏の文章についても気が向いたらそのうち書きます。
しばらくは、書きません。最後にもう一度言うけど、多根氏の個人批判をわざわざしたいわけはない。
したくないけど、仕方なくやりました。
とりあえず今回はこれで終わりです。