神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

1987年までのファミコンRPGの雰囲気

思えば『ファイナルファンタジー』(1作目)をプレイしたのは結構後の話であって、発売した1987年12月当時にどんなもんであったかなど、私は全く知らなかった。

ゲーム史というのは、その状況を伝えるためにありそうなもんなのだが、少なくない割合で『ドラゴンクエスト』1作目がいかに偉大だったかを讃えているだけで、その後のゲームはかなり大雑把な扱いで終わっているか、ひどいものだとドラクエ1で終了してその後は全く触れてない。
いや、ドラクエ前も、ドラクエ自体の認識も怪しいと言っていい。
FF1が作られていた1987年あたりのファミコンRPGを取り巻く状況、そこに至るまでの道のりはいかなるものであったか。
ファイナルファンタジーはどのへんがすごかったのか。
知りたいのはそういうことだったはずだが、誰も私の納得のいくものを書いてくれなかったので、私が書く。

本記事はファミコン史を俯瞰するものではない。書いているのは主に87年までのファミコンRPGと関わる話であるし、RPG以外の作品だろうと関係のありそうなものは何でも触れていく。

1985年あたりまでの状況

ドラクエより前の状況から軽く見ていく。まずはドラゴンクエストに強く影響を与えたとされるUltimaWizardryの登場からだ。これより古いRPGもあるが、今回はあんまり関係ないのでパス。
Ultima』『Wizardry』の発売は1981年とされているが、堀井雄二の例であれば、エニックスとの縁で1983年10月(たぶん)のアメリカのApple Festに招待され、そこで初めてWizardryに触れたという。
それは既にファミコン本体が発売しているような時期の話だった。

ドラゴンクエスト 伝説と勇者の誕生:App Store ストーリー

堀井雄二は帰国してほどなくして、Apple IIWizardryを入手したようだ。
堀井氏はもともとパソコンは所有しており、ジャンプに記事を書いたりエニックスのプログラムコンテストで入賞するほどの人物だったのだが、RPGに早く触れたほうではないらしい。国産RPGでも堀井氏がRPGをやる前の83年?82年?には既にあったようである。
とりあえず、84年あたりには国内のPCユーザーにもRPGが定着し始めており、堀井雄二もその一人であった。

1984年7月、アーケードゲームドルアーガの塔』はそういう時代に生まれた。
ゲームジャンルとしてはアクションであるが、作者の遠藤雅伸ドルアーガ開発時にWizardryも念頭にあった。
RPGのような西洋風ファンタジー世界、多数の装備品による強化要素を持つドルアーガの塔は大ヒット作となった。

ドルアーガの前後くらい、ドラクエより前のPCゲームの事情についても、外部サイトに詳しいので、今回はあまり追及しない。簡単には、85年あたりの国内のPCユーザーには既にRPGが流行っていた、という理解をしておく。
ただ有名作の中でアクションRPGの存在感が強いことには注意したい。大ヒット作である『ハイドライド』は、『ブラックオニキス』と『ドルアーガの塔』を意識した作品であり、『Wizardry』『Ultima』の影響は全く受けていないのだという…

アクション要素のない『ドラゴンクエスト』のようなもの、すなわちコマンド入力型のRPGのことを堀井氏は当時の文章(著書『虹色ディップスイッチ』に掲載)では「正統派RPGと呼んでおり、『ゼルダの伝説』のような「アクティブRPG」(これがアクションRPG)と区別していた。
ファミコンにも先に来たのはドラクエではなく、アクションRPGのほうである。

一方、コンピューターゲームを離れると1985年には新和から『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の日本語版が発売されていた。その前から輸入品を手にしている者もいたようだが、日本語版もヒットした。
アニメでも『聖戦士ダンバイン』が1983年に放送開始するなど、洋風ファンタジー自体はその前から来ていたようだ。
だがこの辺もそこまで重要じゃないので、大雑把な認識にとどめておく。西洋風ファンタジー要素は、それこそ『マジンガーZ』にも色濃くあるし。
ドラクエの時点では、「ドラクエっぽいファンタジー」それ自体はさほど珍しいもんじゃなかっただろう。「ドラクエみたいなファンタジー」という認識が発生するのはドラクエ3以降と思われる。

なお『Wizardry』の日本展開については、国産PC日本語が登場するのは1985年12月とのことで、ドラクエのわずか半年前のことだ。これはもう既に黎明期ではない。

ドラクエより前のファミコンRPG

ファミコンユーザーはどうだったのだろう。
1985年9月『スーパーマリオブラザーズ』の登場によりファミコンはますます勢いづいたのだが、その前月の8月には『ドルアーガの塔』がファミコンにも移植されている。スーパーマリオの登場でアクションゲーム全盛期が来る(※雑な認識)のだが、RPGブームへの動きも既に始まっていたのである。

11月末にはファミコン版『ポートピア連続殺人事件』が登場した。これは当時のファミコンでは異例の、ストーリー性が非常に強い作品だ。
またファミコン版ポートピアは3Dダンジョンでも有名だ。RPGの中でも3Dダンジョン要素だけは、85年に既に登場し、それなりに受け入れられた。

12月にはそれぞれ「RPG」「ロールプレイング」を名乗る『頭脳戦艦ガル』と『ボコスカウォーズ』の移植の2作が同時期に登場。
特に頭脳戦艦ガル。これは戦闘による成長要素のあるSTGなのだが、こういうものが発売される経緯が重要だ。おそらく、ドラゴンクエスト以前のファミコンにも、RPGの波が少しは届いていた結果だと考える。実態がSTGであったとしても、RPG要素を部分的にも組み込もうとしたり、RPGと名乗ってさえみせるということが起こっていたのだ。

1986年2月になると、ディスクシステムと共に『ゼルダの伝説』が同時発売した。
ディスクシステムファミコンにはできなかったセーブ機能と大容量を持ち、従来よりも複雑な内容のゲームが作れるようになった。
ゼルダの伝説』はアクションアドベンチャーとされているが、当時からおおむねアクションRPGとして受け止められている。内容的にも、ドルアーガやPCのRPGなどから幾らか影響を受けていると思われる。

ファミコンでは、3月には文句なしにRPGである『ハイドライドスペシャル』が登場。ゼルダと違い、箱にもロールプレイングゲームと明記してある。
ディスクシステムの裏で、まだセーブ機能のなかったファミコンにもアクションRPGの波が来ていたのだ。
だがその波が本格的なものとなる前、6月の『ワルキューレの冒険』に先駆けて、1986年5月に『ドラゴンクエスト』がついに登場する。

ドラゴンクエストは大ヒットしたが、大ヒットしてない

ドラゴンクエストファミコンでは最初の、アクション要素を持たない「正統派RPG」だ。コマンド型RPGともいう。
堀井雄二自身はWizardryのような非アクションのRPGを愛好していた人間だが、多くのファミコンユーザーにとっては未知の体験となる。
RPGを知らないユーザーを想定し、徹底的に初心者向けに調整したドラゴンクエストは、週刊少年ジャンプでのバックアップもあり、かなりの成功を収めた。

ここまでが86年5月までの大雑把な流れだが…
ここでドラゴンクエストの大成功によるRPGブームが始まるのである、とか言って終わってはいけない。
ドラクエ1そこまで大きなヒット作ではない

ドラゴンクエストはすぐには売れなかった」みたいなことは、古い本だと割と書いてあることがある。『ファミコン10年』、『テレビゲームの神々』あたりには書いてある。(鳥嶋和彦氏もどこかのインタビューで言っていたと思うがソース失念)
最近のゲーム史だと、完全にそのことも書いてない。だって最終数値の150万本って、十分売れてるように見えるし。
だがこれは最終値であって、発売直後はもっと少ない。
ドラクエ1は、かなり後まで再販されている。
はっきりした記録まではわからないが、おそらくファミコンソフトの新作が出ていた90年代前半はまだ再販を続けていたはずである。公式ガイドブックが出たのも1988年で、ドラクエ1は普通に新作ドラクエ3と同等の扱いで流通していたのだ。

私が持ってるものは説明書が2版となっており、カセットのラベルにFFマークがついてる。あと箱の炎の部分が黄色いらしい。最低でも88年以降に再生産されたもので間違いない。市場のドラクエ1はこの後期版のほうがよく見かける印象。
どのくらいの規模の再販がされていたかは不明だが、そこまで行ってようやく150万本だ。この86年の時点で150万本ということはない。

別件で教えてもらった『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』(91年)という本によるとドラクエ1の初回出荷数は76万本で、当初それほど売れてないことを書いている。数か月後に在庫を売り切ったのち、再販によって最終的には135万本なんだというが、これが91年の数字なのか、86年内に達成したのかはわからない。

…ただ、注意したいこともある。この本に限らない問題で、こうした「ドラクエ1は当初そんなに売れてない」記述には、おそらく取材された人の主観が強く出ている。この「ドラクエ1はそんなに売れてない」というのは、ほとんどがドラクエ3が300万本売れた後の印象で話している
確かに、86年のファミコンソフトには100万本売れたものはかなりあり、『ドラゴンクエスト』が突出していないことは確かなのだが、76万本でも十分多いわ
むしろ初回出荷数にしては多すぎる気がしてる。在庫を維持しながら数ヵ月で売った本数としては、それっぽい。

当時の状況を資料から見てみよう。ファミコン通信』1986年創刊第3号
これが今回非常に重要な資料なのだが、好都合にも現在第1号から3号までまとめて復刻された電子版が入手可能だ。

ファミ通第3号の4ページ「ファミコンゲーム売れすじTOP30」で、初登場の『ドラゴンクエスト』は2位で6420ポイントを記録している。
1位がスーパーマリオブラザーズ2の9552ポイントで、そりゃ勝てるわけがねえのだが、2位とはいえ大健闘というか、かなり最初から大ヒットと言えるレベルだったはずである。「2位のドラゴンクエストも本当はすごい売れ行きなんだけど……。」って編集部のコメントも書いてある。
これは相手が悪すぎるというか、スーマリにぶつけた週で普通に売れてる時点で十分以上にすごい。

ポイントは販売数を反映していると思われるが、数値はファミ通が複数の販売店の協力で作成したものとのことで、正確な本数を示すデータではない。
6420がどの程度かの参考値として、創刊号の1位はゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』の6924ポイントである。前回1位とのことで、創刊前の号(ログイン本誌?)から連続で1位のようだ。
鬼太郎は第2号でも2952ポイントで2位、3号でも1089ポイントで4位と、勢いを落としながらも相当の数値だ(この当時のファミ通は隔週刊)。
つまりドラゴンクエストの最初2週間の販売数は『ゲゲゲの鬼太郎妖怪大魔境』の3,4周目よりは少し負けていたくらいであるが、普通に考えてヒットの範疇だろう。
鬼太郎の最終出荷数は125万本だ。比較すると、ドラクエもこの勢いなら短期間で70万本くらいは出ていてもおかしくない。

客観的に見て、ドラクエ1は「ドラクエ3に比べれば全然売れてない」のであり、この比較がなければ86年の時点でも十分ヒットと言えるものだった、と私は考えている。
76万の信憑性はわからないが、仮にもっと少なかったとしてもすぐに続編が決まるくらいには売れていたのは確実だ。
だが、この時点でまだ150万本売れていないのも間違いない。

86年のファミコンソフトのうち、出荷数100万本を越えたとされるのは以下の13タイトル(ディスクシステム含む)。

発売日 タイトル 本数(万本)
1986/2/21 ゼルダの伝説 169
1986/3/5 忍者ハットリくん 150
1986/4/17 ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境 125
1986/5/27 ドラゴンクエスト 150
1986/6/3 スーパーマリオブラザーズ2 265
1986/7/21 バレーボール 198
1986/8/6 メトロイド 104
1986/9/12 高橋名人の冒険島 105
1986/10/21 プロレス 142
1986/11/27 ドラゴンボール 神龍の謎 125
1986/12/10 プロ野球ファミリースタジアム 205
1986/12/12 ドラえもん 115
1986/12/19 光神話パルテナの鏡 109

情報源:CESAゲーム白書2022「国内歴代ミリオン出荷タイトル」。

ドラゴンクエスト』は最終値の150万本で考えても、同時期のゲームと比較すれば『忍者ハットリくん』と同ランク。
ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』は最終的に超えたようだが、大差をつけるほどではなかった。
(なお、忍者ハットリくんもFFマークのあるカセットが存在しており、かなり後まで再販されていたことが確認できる)
そして最終数値の150万をもってしても、ファミスタの205万本に遠く及ばない。

ドラクエ1は大好評だったが、ファミコンそのものでのRPGブーム、世間でのファンタジーブームをもたらすほどの力はなかった。これは、今後の立場としてはっきりさせておく。
どちらかといえば、ドラクエ1こそ今にも始まりそうだったRPGブームに先んじて乗っかった側、既にゲーム誌が盛り上げていたファミコンRPGへの期待感に応えた側だったのではないか?
ドラクエ1それ自体は高く評価され、ドラクエ2への期待へとつながったが、このときはファミコン界を塗り替えるほど大きな存在でもなかった。
しかし初代『ゼルダの伝説』とは違うRPGの面白さを、PCとユーザー層の異なるファミコンに、大規模で広めることには成功した。
そこまでのヒットじゃないと言っても、おそらくPCも含めた国産RPGとしては当時上位のヒット。その後の礎を築くだけの強度は確実にあった。これは、後に起きるファミコンRPGブームを加速させる大事件だった。
だがそれも『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』程度のパワーなのだ。
100万本売れたという話もあるPC版『ハイドライド』(ちょっと怪しいが)と比べて、RPG人口を押し上げるほどの差は果たして本当にあったのだろうか。

ドラクエ1は最初から売れていたし、そこから頑張って倍くらい伸びたのかもしれないが、終結果もそれなりの売上で終わったゲームである
これは過大評価しても過小評価してもいけない。すごいけど、すごすぎはしない。
ドラクエ1の存在は慎重に評価されなければならない。
確かなことはひとつで、ここでファミコンRPG史を終わらせてはならない。まだファミコンRPGブームは始まってもいない。

※後で補足するが、ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境は一般にはアクションゲームとされているが、ドルアーガの塔と同様にRPGを少なからず意識した作品だと考えている。「ドラクエ以前のファミコンRPG」という括りだと、これも言及する意味はあると考える。

ドラクエ以降の世界

実際『ドラゴンクエスト』が発売しても、あまり状況が変わっていたようには見えない。

ドラクエの翌月、いち早く登場した『ワルキューレの冒険』は経験値制のアクションRPGだ。ゼルダの伝説の影響はあるようにも見えるが、PC作品からの影響も大きいと思われる。
この後は各社からアクションRPGと思われるものが、結構な数が発売されている。ゼルダの影響を受けたと思われるフォロワーもいる。
だが12月の『ディープダンジョン』まで、ドラゴンクエストのようなコマンド型RPGは、どうやら一つもないのである…

ドラクエ1からのフォロワーと思われる作品が少ない理由として、一つは純粋に開発が間に合わなかったというのが挙げられる。当時のファミコンRPGを作るノウハウが一番あったのは間違いなくドラクエ自身であり、ドラクエを見てから作っても、追いつくことは不可能に近かった。
当時のゲーム開発速度を考えても、わずか8ヵ月後に登場したドラクエ2の発売はやっぱり相当に速い。異常なレベルと言っていい。
唯一ドラクエ2より早くに登場したのがディスクシステムの『ディープダンジョン』だ。だが本作は3Dダンジョンであるし、ドラクエ1の登場より前から開発していた可能性も高い。ディスクシステムの大容量とセーブ機能でRPGを作ろうとした勢力、ドラクエと無関係に登場してきてもおかしくない。
(装備に「どうのつるぎ」とか出てくるようなのでドラクエの影響があること自体は肯定できる)

年は明けて87年。
1月『リンクの冒険』『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』が立て続けに登場する。
リンクの冒険はコマンド型RPGではないのだが、明らかにドラクエの影響がある…何か変な感じのゲームだ。分類するなら前作と同じアクションRPGだと言えるが、同じジャンル名でもゲーム内容ははだいぶ異なっている。
改めて比較するとキャラの小さい2Dマップ+横スクロールアクションの構成はゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』とかなり似ているのだが、町で人と会話したり魔法を覚えたりとRPGらしさ、ドラクエっぽさも強まっている。
ついでにザコ敵がスライムとスライムベスだし、ロトの墓も出てきて、かなりモロにドラゴンクエストの影響が見える。こうして任天堂自らネタにしても大丈夫と思われる程度に、ドラクエは既にファミコンRPGの代表だったのである。
だがゼルダの伝説のシリーズ展開は、ここでいったん中断する。ゼルダディスクシステムを代表する作品として名を残しながらも、ここから『神々のトライフォース』まで5年近くの休眠期間に入る。

ドラクエ2リンクの冒険からわずかに遅れて登場した。既にドラゴンクエストの名声は高まっており、品薄により発売日から行列ができる大ヒット。
最終出荷数は240万本と、前作を大きく上回るヒットとなった。
…なんでこんなに躍進したんだろう。ドラクエ2もかなり後まで再販されているので、87年の販売本数まではわからないが、最終数値でも前作と90万本差というのは結構大変な話だ。
1を中古で買って増えた層もかなりいるだろうが、それを考慮しても「2だけやって1をやってない人」というのがかなりいたことになる。
2のほうが面白かったから評判が広がるのも速かった、と単純に言っていいのだろうか。90万の差というのは、よくわかんない。2は1よりも宣伝されるような状況にあった?
または、1の評判が広まってきたタイミングでちょうど2が発売したので、いきなり2から買おうとした人もかなりいたか。
あと内容はもちろん、品薄になってメディアで取り上げられたことも格好の宣伝になったんじゃないだろうか。

(今回ソースが確認できなかった情報なのだが、ドラクエ2は発売延期の影響で初回出荷数がかなり減ったという話があるらしい。どうも、これは初期の品薄の直接の原因のような…)

ドラクエ2からの一年間

不明点も少しあるが、ドラクエ2は前作を大きく上回る大成功。ここからが本当のファミコンRPGブームだ。
と、すぐに行くわけもない。

1987年前半、アクションRPGは増えてきていたが、いまだコマンド型RPGは少なかった。もちろんドラクエ2のヒットを見てから作り始めても、すぐには追いつけないし。
5月、ディープダンジョンの続編『ディープダンジョンII 勇士の紋章』がディスクシステムで登場。どうもこれがファミコンのコマンド型RPG第4段のようだ。
6月になり、ようやくディープダンジョンに以外のドラクエフォロワーと思われる『ヘラクレスの栄光』が登場した。これも「どうのつるぎ」が出てくる。

ドラクエから1年過ぎた87年後半、ようやくRPGが市場に増え始める。
主要なタイトルをピックアップすると、9月には『女神転生』が登場。こちら明らかに『Wizardry』から直接影響を受けたうえで、独自のアイデアも強く打ち出した異色作だ。
画面構成や演出はドラクエ1と似てるところもあり、意識してないというほどでもなさそうだが、明確なドラクエフォロワーと言いにくいタイトルだ。
岡田耕治も、ドラクエに先を越されたことを言っている。企画スタートはドラクエ発売より前か?

メガテンの生みの親,岡田耕始氏が自身を捧げたRPGという祭(前編)アトラス立ち上げと初代「女神転生」 ビデオゲームの語り部たち:第31部 (4gamer.net)

10月には『恐怖のエクソダス』『覇邪の封印』と、PCからの有力な移植タイトルが登場。

11月の『桃太郎伝説』は堀井雄二と親交のあるさくまあきらの作だ。こちらは明確にドラクエフォロワーと言っていいだろうが、『夢幻の心臓』の影響もあるらしい。
この『桃太郎伝説』はファミコンRPGでも上位のヒット作となった。

12月には『ファイナルファンタジー』。そして『ウィザードリィ』の移植。

ゼルダを眠らせた任天堂は、RPGの勢いをどう思っていたか。任天堂も『銀河の三人』というのを出しているが、これはエニックスから流れてきたタイトルらしく、経緯が少し謎だ。任天堂自身はRPGをサードに任せており、それほど熱心ではないように見えた。

ファミコン以外に目を向けると、セガマークIIIマスターシステム)でも10月に『覇邪の封印』の移植、12月にはオリジナル作品の『ファンタシースター』が登場。なんとファンタシースターの容量はドラクエ3の倍の4メガもあった。
少し遅れて88年1月にはPCエンジン初のRPG邪聖剣ネクロマンサー』。

…これ、どこまでドラクエの影響だ?
そりゃあ、ドラクエのヒットを見れば、コマンド型RPGの企画も通りやすくなったとは思うし、ファミコンでもRPGが作れる、売れることをドラクエが広めたから、それに勇気づけられた勢力ってのもいただろうが。

セーブなしでRPGを作れるのか

前提として、ドラクエ以前からRPG堀井雄二だけでなく、PCを持っていたゲーム業界の中の人たちにも広く流行っていたと考えられる。それは1984年時点でも既にそうであり、坂口博信などもその一人だった。
ドラゴンクエストはすごいのは、RPGファミコンユーザーにも受け入れられると86年の時点で見抜き、需要を開拓したことだが、他にRPGを作りたい会社が全くなかったとは考えにくい。『頭脳戦艦ガル』がRPGを名乗ってるのがいい例だろう。
だが、ドラクエ以前はファミコンRPGを出せるかそれ自体が問題だった。
これは坂口博信も言っているが、需要だけじゃなく性能面の問題も大きい。坂口博信ドラゴンクエストを見て、ファミコンでもRPGが作れることに衝撃を受けたという。

ファミコンRPGができないと思われた理由のひとつは、まず86年のファミコンカセットにはセーブ機能がなかったウルティマやらウィザードリィやら、古典RPGにも当然セーブ機能はあったので、これは致命的だ。

セーブなしで長丁場のRPGを作るには、パスワードしか方法がない。
パスワード制のRPGは、ファミコン以外なら85年にはあったことがわかっている(ハイドライドMSX版がそうらしい)。
ファミコンハイドライドスペシャルも当然パスワードで、ドラゴンクエストはその点でも新しくはないのだが、とにかくある程度はセーブなしで何とかなることがわかる。
パスワード方式だと保存できるものは非常に少なくなるが、必要なものを厳選すればひらがな20文字でもそれなりに成立する。このことをドラゴンクエストは広く示した。

だが20文字程度で保存できるものは極めて少ない。ドラクエ1はパスワードを短くするために、必要な情報を削ぎ落しており、主人公の成長パターンにはランダム要素がないし(名前で変化する)、アイテムの種類も少ないし、開けた宝箱も保存しない。

内容が複雑になればパスワードも長くなる。ドラクエ2なら3人それぞれの経験値、所持品、一部のイベントの進行フラグを保存しており、それで52文字にまで膨れ上がった。
それでもドラクエ2も成長にランダム要素がないし、イベントフラグもごくわずか、宝箱や一部イベントは復活するし、アイテムも没アイテム含めて63種類に収まるようになっている。
所持できるアイテムの個数だけではなく、世界に存在するアイテムの種類を増やすだけでもパスワードは長くなってしまう。パスワードを短くするために、ゲーム設計や世界の規模そのものすら制限を受けている。

ドラクエはパスワードの制約の下でも楽しく遊べるゲームを作ることに成功したが、パスワード制の問題を根本的には乗り越えたとは言えない。必死に削った52文字だが、これでも現実的にユーザーが対応できる限界に近いと思う。ドラクエ2復活の呪文が許されてるのは、ドラクエ2自体の面白さで何とか誤魔化しているに過ぎないだろう。
いや、本当に許されていたのか?むしろ当時のユーザーのほうが怨嗟の声が大きいような。
セーブ機能がないハードで、ドラクエ2ほど複雑なRPGは無理がある。87年の時点ではそうだったと言い切っていい。

打開策となるバッテリーバックアップの登場は、ファミコンでは87年4月の『森田将棋』が最初と言われる。バッテリーバックアップ採用の北米版『ゼルダの伝説』が出たのが87年8月で、任天堂としても、この時期にバックアップカセットを生産できる必要があったと思われる。
日本のファミコンRPGでは、87年後半からバッテリーバックアップを採用しはじめる。どうやらコマンド型RPGでは恐怖のエクソダスが最初のようだが、後発の桃太郎伝説はまだパスワード。完全な定着はもう少し先だ。

だがセーブだけなら、ドラクエより前からディスクシステムを使えばできたはずだ。
ディープダンジョン以外にも87年の『クレオパトラの魔宝』や88年の『ウルトラマン倶楽部』など、ディスクシステムのセーブ機能を使うRPGも存在しないこともないのだが、やはり数は少ない。なぜか?
そりゃディスクシステムの失速もあるだろうが。

容量問題が解決していく

もう一つの大きな問題は、そのディスクシステムが失速した理由でもある容量だ。
ドラクエ1の容量は512kビット(=64kバイト)。
これは現代の基準では少ないとしか言えないが、86年5月当時のファミコンカセットとしては最大容量だ。前月の『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』と『グラディウス』も同じ512キロだが、これでも320キロのスーパーマリオブラザーズよりは大幅に増えている。
このぐらいの大容量をブン回して、ようやくドラクエ1程度のRPGが実現できるようになった。ドラクエ以前にはこのような大容量ロムを使用したゲームは、まだほとんどなかった。よってRPGを作るのは普通に無理だった。
ドラクエ1は「ファミコンの限られた機能でRPGを作ってみせた」ことで有名だが、逆にファミコンカセットの性能向上に早い段階で乗っかったタイトル」という側面もあるのだ。

もちろん512キロでもまだ厳しかった。ドラクエ1の後にも、512キロのコマンド型RPGはどうやら存在しないようだ。
512キロでのRPG作りに挑戦する前に、ドラゴンクエストの翌月に早くもメガロムが登場しているのである。86年6月に登場した『魔界村』が、ファミコン最初の1メガだと言われている。
だがその翌月の7月、コナミの『がんばれゴエモン からくり道中』がそれを更に上回る2メガロムで出てきた。
ゴエモンコナミ製造のカセットなので、他社を凌駕する何か独自の方法を使っていたと思われる。翌年はじめのドラクエ2でもまだ1メガロムであり、2メガというのは飛び抜けている。
しかし、87年後半にはその2メガも珍しいものではなくなっていた。

ディスクシステムRPGブームが起きなかった理由としては、ディスクシステム自体の人気や性能とは別に、おそらく1メガでもまだコマンド型RPGを作るには厳しかったのだろう(ディスクカード両面で1メガだとよく言われるが、実際はもう少し少ないらしい)。
カセットでも、ドラクエ2と同じ1メガで製作されたコマンド型RPGは少ない。
だがこれが2メガになるとドラクエ3が作れるようになる。ドラクエ1の4倍の容量だ。
85年末のPCゲームだと320キロバイトフロッピーディスク(2D)が主流だったそうだ。2メガはバイトに直すと256キロバイトであり、数年遅れだがPCゲームに近い容量は確保できていた。技術のあるところなら十分なRPGを作れるようになった。

これが87年後半の状況だ。容量の増加とセーブの両方が揃い、ドラクエ2もヒットしてRPGを作る人間も増えてきた。
なお、ファミコンで容量を増やすにはROMの製造コストの問題だけでなく、ある程度からはバンク切り替えという技術も必要になる。そのためのチップをカセットに搭載するなどハードウェアの進歩も必要だった。
つまり、この時期はファミコンカセット自体が高性能になっていったのである。
また『魔界村』ではドラクエ1には使われていなかったCHR-RAMというのも使われている。これによりグラフィックデータの運用にもドラクエ1より融通が効くようになった。

坂口博信が気にしていたファミコンの性能問題は、ドラクエとは関係なくファミコンカセットの進化で勝手に解決していったのだった。
つまり、この87年以降のRPGは、必ずしもドラクエの影響で出たと言いきれないRPGはもともと流行っていたのであり、ドラクエ以降のものも、純粋にファミコンの性能が上がったから挑戦したという会社があってもおかしくない。
もしドラゴンクエストがなかったとしても、87年後半になればそれなりに高度化したファミコンRPGは登場していただろうと、無責任に言いきってもいい。

だが、『ファイナルファンタジー』に関して言えば、明らかにドラゴンクエストを意識した側のタイトルだった。
86年のファミコンブーム、87年後半の技術進歩に、こうしたドラクエの存在感によるブーストがかかった状態こそが真のファミコンRPGブームではないだろうか。
ファイナルファンタジーへの道」が、ようやく見えてきた。

この記事の目的

もともと「ファイナルファンタジーが出た当時の状況」を確認したいだけだった。
ここまで書いてはっきりわかったが、私はゲームの歴史を語る気など端からなかった。
本記事はファミコンRPG史を書こうとしたものではなく、FF1が出た当時の状況をただ確認するため、情報を整理して並べただけのものである。
それも、インターネットや図書館を探せば、そのへんですぐ見つかるような情報ばかりだ。
本記事に書かれているのは、ここんところ2ヵ月程度そこらへんを走り回って集めた付け焼刃の知識ばかりであることをここに述べておく。出てくるゲームタイトルもやったことないやつのほうが多い。

それでも何も書かないよりはよいと思えた。
次回、この付け焼刃の知識を持ってFF1の話を書いてみたい。果たしてゲーム史においてFF1はどのような存在なのか。
ゲーム史とは一体何なのか、この違和感を言葉にできるかどうか。

次の記事へ続く。

補足

ドラクエ2の初回出荷数は延期の影響で半分に減って40万本という情報がネットから見つかったのだが、ソースが特定できなかったことを述べておく。

ファミコンのカセットはサードパーティのものも任天堂が製造していた。人気作であっても、発売延期で生産の都合がつかなくなるということは十分ありえる。
ドラクエ2の初回出荷数が半減したというのは、それっぽい話なのだが、とにかくソースが特定できないので調べようがなかった。

堀井氏は『Ultima』をWizardryより少し遅れて入手しているらしい。これは5月8日に放送されたばかりのラジオ、J-WAVE『TOKYO M.A.A.D SPIN』で鳥嶋和彦堀井雄二が言及しており、並行輸入の店に買いに行ったとかなんとか。
Wizardryよりも購入ルートが少なかったのか?
少なくとも堀井氏の周辺では、そうだったと考えられる。

輸入タイトル同士でも流通ルートの差があるというのは、数日前にこのラジオを聞くまで私は考えたことがなかった。でも確かに海外でも知られてないようなタイトルを参考にしてる例もあるようで、そういうこともありえるか…

  • 堀井氏のやったゲーム

堀井氏が影響を受けたという『Questron』は古い文献でもほとんど言及しているものがなく、堀井氏周辺以外では名前も聞いたことがないというのが本音である。堀井氏自身も一部のインタビューで言及しているくらいで、語っている事例は稀。
ドラゴンクエストへの影響も限定的な範囲であり、海外ではともかく日本ではたまたま堀井雄二が好きだった作品に過ぎないのではないかと考えているのだが…

また堀井氏は昔の著書から『夢幻の心臓』を少なくとも知っていたことはわかっているのだが、たとえば『夢幻の心臓2』ならどうなのか、今回の調査ではわからなかった。85年後半あたりになると堀井氏はライターとしても開発者としてもファミコンに集中してやっていたはずであり、PC88の有名タイトルだからってやっていたとは限らない…

これは堀井氏に限った話ではなく、有名作品だからって全部プレイできる人ばかりではない。「先に似たゲームがあった」というのは、「単に似てるだけ」ということも十分ありえるわけである。
むしろ堀井氏のようにAppleIIと国産PC88とファミコンを全部持っていた人は少数派であろうと考えると、ゲーム業界の中の人だろうと有名作品の知識がハードごとすっぽり抜け落ちている人も当然いるはずだ。

ハイドライド』は「アクティブRPG」と称していたようであるが、開発した内藤時浩はアクションとかRPGとか、ジャンルに対する意識そのものがなかったようだ。

この動画の49分あたりから開発者の内藤氏のハイドライドの話。
内藤氏はドルアーガブラックオニキスを参考にしていたが、WizardryUltimaは知らなかった。ハイドライドほどの有名タイトルでも、その前の有名作をまるで意識していないということも当然ありえることなのだ。

スクロールロールプレイングゲーム頭脳戦艦ガル』は、一般にはSTGと認識されており、RPGとは言い難い内容なのだが、RPGの影響を受けたと思われる成長要素と探索要素は持っていた。
純粋に敵を倒した数で成長するSTGというのは現在でもかなり珍しいはず。会社側もこれをRPGを名乗らせる判断をする程度にはRPGというジャンルへの思い入れがあったのだろうと考える。
なお堀井雄二によると、中村光一がこの頭脳戦艦ガルを結構真面目にやってたらしい。

堀井雄二氏が“師匠”小池一夫氏とドラクエ,キャラ作り,そしてゲーム業界について大いに語る。堀井氏はまさかの「ポートピア殺人事件2」を企画中!? (4gamer.net)

ここで言及。発売日から考えるとたぶんドラクエ作ってる時期。

今回『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』という本を参考にした箇所がある。
内容としては90年ごろのスーファミ発売前後くらいの、主に流通関係の事情を追うもの。
別件で教えてもらった本にたまたまドラクエの話が載っていたので使わせてもらったが、教えてくださった初心カイ氏にも言われたが、この本の内容には怪しいところもいくつか…
著者は業界関係者に綿密な取材を行ったことが伺えるのだが、問題は著者ではなく取材された側の人間、ゲーム雑誌の関係者などの主観が明らかに強く出ていることである。
残念ながら、著者もその主観を見極めるほど詳しい人ではなかったようだ。
取材そのものは客観的な姿勢で丁寧にやられており、信用できる部分とできない部分をうまく見極めれば有用な文献だと考える。ドラクエ1の出荷数76万本に関しては、リアリティのある数字と判断して採用した。初回ぶんだけかどうかは少し怪しいが。
そしてこれは「76万も出てるのに大して売れてなかった」という偏見の確かな存在を示す資料でもある。

  • 150万は少ない

76万とか150万とかで少ないというのは、ドラクエ3を見た後の印象だろうと基本的には考える。
だが、もとはドラクエの身内側、中の人の感想であった可能性はある。
これも5月8日のラジオで、鳥嶋和彦氏がドラクエ1はもっと売れて話題になると思っていた旨を語っている。鳥嶋氏に関しては、これは後付けの印象ではなく当時からの素直な感想だろう。
ジャンプゲーを100万単位で売っていた当事者にしてみれば、ドラクエ1は150万でもまだ少ないと思えたはずだ…

他のドラクエ関係者も似たようなことは過去に言ってたはず(ソースあやふや)。
ただし、堀井氏本人に関しては、発売当時の文章を読んでもそこまでドラクエ1の力を過信してなかったようには感じた。

ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』基本的には2Dアクションゲームなのだが、内容は結構複雑で、簡単には説明しがたい。

まずマップ画面を見るとわかるのだが、妖怪大魔境はウルティマに極めて近い2D見下ろし画面を採用している。ゼルダの伝説よりも遠景スケールであり、魔境が1マスのアイコンというドラクエに近い表現を使っている。しかも敵ボスの城が最初から見えているところまでドラクエと同じだ。
画面スクロールこそしないが、ドラゴンクエストより前のファミコンでは、このスケール感で描写する方式自体がかなり珍しいはず。
ハイドライドスペシャルにはアイコン様式の城があるので、ファミコン最初ということはない)


魔境のアイコンに接触すると画面が切り替わって横スクロールアクションになる。ドラクエは「ウルティマのマップ+ウィザードリィの戦闘」などと言われるが、妖怪大魔境は「ウルティマ+スーパーマリオ」だと言える。
「マップと戦闘の分離」も、それ自体は別に珍しいとは言えないかもしれないが、少なくともドラゴンクエストよりは1ヵ月先にやっている。
ステージをクリアする条件も魔境ごとに違い、バラエティ豊か。

そして、このRPGのマップ+2Dアクションという組み合わせは後の『リンクの冒険』や『月風魔伝』と同じだ。
しかも妖怪大魔境はドラゴンクエストと同レベル以上で売れた大ヒット作品であり、他社に意識されていても全くおかしくない。
特に和風の雰囲気を含めて、月風魔伝にはかなり影響しているのではないかと今回思ったのである。

しゃがみ+ジャンプで足場を降りるって当時の2Dアクションじゃかなり珍しいよね?
これを採用したゲームで妖怪大魔境より古いのあるんだろうか。私の知識ではわからないので有識者は調べてください。

このゲームまだ珍しい要素があって、ステージがゲームのたびに変化するローグライト的要素がある。
また属性攻撃の弱点・吸収という概念まであるんだと…
伊達に512キロではない複雑さだ。当時売れたのもキャラ人気だけじゃなく、納得がいく内容だ。
難易度が高すぎて後のステージを遊びきれないのが難点。

  • パスワードの容量

ドラクエ復活の呪文に使われる文字はひらがな64種類。1文字あたり6ビットの情報量があるということである(2の6乗=64)
6ビットが52文字で、ドラクエ2復活の呪文に保存できる容量は単純計算で312ビットぶん。実際はチェックサムがあるのでもっと減る。

では312ビットとは、どのくらいか。
ドラクエ1の場合、経験値の最大は65535なので、これだけで最低16ビット必要と考えられる。
ドラクエ2は経験値は100万まで上がるので、これを保存するだけで20ビット必要。これが3人で60ビット。
また63種類存在するアイテムを8個所有していれば、それだけで48ビットであり、3人で144ビットだ。3人の経験値と所持品だけでも合計204ビットも消費する計算で、これに所持金に名前に少々のフラグで、312ビットくらいあっという間に使い切るだろう。
開けた宝箱など保存している余裕はない。

パスワードを短くする工夫はゲームによっても違う。ワルキューレの冒険ならほとんどの所持品を保存しないという豪快な方法を使っているし、女神転生なら経験値を主人公ふたりで共有する。
いずれにしろ、パスワードであることそのものがゲーム内容そのものにも響く重大な問題だった。

  • バッテリーバックアップのすごさ

ファミコンのバッテリーバックアップに使うSRAMは64キロビット(8キロバイト)が標準で、単純計算でドラクエ2の呪文と比べ200倍以上の情報を保存できる。復活の呪文10000字ぶんくらいだろうか。
これはこれで多すぎである。ドラクエ3ではキャラクターの成長もランダム要素が入るようになり、酒場にメンバーを預けることも可能になり、それを3つのセーブで別々に保存できるのだが、はっきり言って保存できる情報に対してファミコンのメインメモリのほうがついてこれない。
ルイーダの酒場に行くたびにセーブを強要されるのは、酒場に引っ込んでるメンバーの情報を参照するだけでもセーブデータへのアクセスが必要なためだ。

そして、これだけの情報があってもなおセーブ容量には余裕があると思われる。64キロというのはファミコンRPGのみならず、SFC後期のFF6や、酒場の人数の増えたSFCドラクエ3でも同じ容量らしく、87年のファミコンRPGに対しては明らかに過剰だ。

だがなぜかファミコンではこの64キロが標準であった。
容量の少ない16キロ(2キロバイト)のほうが例外的に存在するらしい。使われているソフトの傾向や64キロが主流になった事情など、詳しいことは知らない。高いもんではなかったんだろうが。

追記:64キロはセーブ用のSRAMというか、ワークRAMを兼ねる、要するに増設メモリとしても機能するものだったようです。
参考→家庭用ゲーム機の「NOW LOADING」の始まりからローディングの歴史を振り返ってみた 「セーブ可能なカセット」の図解を見て理解しました。
この用途を想定していれば64キロくらいはあったほうが当然便利でしょう。またワークRAMとしての使用量が多いゲームではセーブ領域は圧迫されたと想像されます。
しかし実際セーブの副産物でワークRAMに使えたのか、逆にワークRAMありきでセーブのほうが副産物なのか、最初から両方を想定していたものなのか、セーブなしでワークRAMのみで使っているタイトルは存在するのか、事情はちょっとわかりません…
部品自体はキャラクターRAM用のSRAMと共通のようです。

  • グラフィックデータの詰め方

ドラクエ1の場合は、512キロの内訳はプログラムの入ったPRG-ROMとグラフィックデータの入ったCHR-ROMに分かれており、CHR-ROMの容量だけがスーパーマリオの4倍に増えている。
プログラム部分はスーパーマリオと同じ256キロから増えておらず、512キロと言ってもグラフィックだけが増量しているようだ。
そのグラフィックもバンク切り替えという技術で一気に切り替える方式しかできないため、実はドラクエ1には使いきれず無駄に入っているグラフィックデータもあるようだ。
ドラクエ2以降は必要なグラフィックデータを都度読みだせるCHR-RAMというのが使われるようになって、単に容量が増加しただけではなくデータのやりくりの自由度が上がったようだ。

Wikipediaファミリーコンピュータのゲームタイトル一覧という記事にファミカセの容量の一覧が載っている。85年作品に512kロムが使われてることになってるが、この一覧はどうも正しくないことがわかった。たぶん、ファミマガ系の資料をソースに書いたものだと思うが。
ファミコンNESのカセットを分解して解析している海外サイトを見たのだが、Wikipediaで512キロと書いてある85年作品は実際は軒並み320キロ以下のものばかりだった。ハイドライドスペシャルでも320キロ。
全タイトル照会したわけじゃないが、ファミコンに『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』より古い512キロ作品はないんじゃないかと今のところ見ている。
任天堂製のカセットならドラクエ1が最初で合ってるかもしれない。

売上データはCESAゲーム白書という文献から引いている。これは一般社団法人コンピュータエンタテインメント協会(CESA)が発行している年次報告書という扱いで、毎年「ミリオン出荷タイトル」というのを過去のタイトルから掲載しており、信頼性も高い資料と考え一部引用した。

しかし、これも過信はできない。発行年度によってFF7の本数が変遷しているなど、微妙にデータが違うことが確認できた。おそらくアップデートは毎年行っているのであり、新しいものが単純に最新版であろうと判断し、2022年版のみを採用した。

  • ミリオンなのか微妙なやつ

桃太郎伝説』は100万本と広く伝えられているのだが、CESAゲーム白書には掲載されていなかった。100万というのは少し盛った数字なのか、それとも単純な掲載漏れなのか、それはわからない。
同じように100万前後のソフトで載ってないやつは結構ありそうな予感。

  • FFマーク

1988年の後半以降に生産された任天堂製のファミコンカセットにはFFマークというのがついている。FFはFAMICOM FAMILY。ファイナルファンタジーではない。
再販されたものにもついており、タイトルによってはバージョン違いの判断材料にもなる。ドラクエ1については、FFマークがついていても中身の変化はないらしいが。
またFFマークのついているカセットは表面がざらざらしたプラスチックになっている(シボ加工)。

  • ざらざらカセット

これも88年の途中から登場している。FFマークの制定と同時期に行われた変更と思われ、ドラクエ1の場合は「つるつるカセット・FFマークなし」と「ざらざらカセット・FFマークあり」の2種類が存在する。

だが、タイトルによっては「ざらざらカセットだがFFマークがない」というパターンもある。

手元のドラクエ3がまさにそうだった。初期のドラクエ3はつるつるカセットであり、これは後期版。ざらざらの中でも右上にB刻印があるのは、ランシールバグに修正が入っているタイプらしい。

調べたら忍者ハットリくんにも「ざらざらカセット・FFマークなし」があることを把握。スーパーマリオにもあるっぽい。おそらく、88年のごく短い期間、カセットの型だけが変更されFFマークのつかない時期があったか…

不思議なことにドラクエ3にはざらざらカセットがあるのに、FFマークのついている個体はないらしい。
ドラクエ3の発売後、1と2の需要が高まり再販されたのは自然だが、3は88年のうちに行き渡っており、89年以降は再販されていない…?
それとも再販ではFFマークを除外される例もあったのだろうか。
忍者ハットリくんには「ざらざら・FFマークあり」も存在しており、ドラクエ3も89年以降に再販されていれば同様の変更は当然できたはずである。

  • 追記1(5月22日)

ドラクエ1がそれほどでもなかったという話は、『ゲーム・マエストロ〈VOL.2〉』の中村光一氏も言っておりました。やはりドラクエの中の人たち側の印象としては、これも間違いではないようです。

一方堀井氏は、

堀井氏の印象ではすぐ売れたという感じだったようで、どうも世間で言われることとの温度差に自覚もあるようです。
こちらではドラクエ1の初期出荷数を50万本くらいとしています。

  • 追記2(5月22日)

当初100万本出荷タイトルにカプコンの公式サイトに掲載されていたものを掲載していましたが、これは世界全体の出荷数であることを見逃していました。CESAゲーム白書の通り、カプコンファミコンソフトで国内出荷数100万本を越えているいるものはないものと考え、記事を一部修正しています。ご了承ください。

参考資料

記事中であげたもの以外

  • 虹色ディップスイッチ

堀井氏の初期の86年ごろから90年あたりまでのエッセイとインタビュー。ドラクエ1や2の開発当時の生の感想や、堀井氏のファミコン神拳より前の活動などが書いてあるものすごい本。と同時にエロゲーレビューとかも平気で載せてる。
入手は困難ですが、図書館によっては置いてありますので探してください。

堀井氏ほかのインタビューあり。エニックスのプログラムコンテストの話や、鳥嶋氏のジャンプゲーの感想など一部参考にしました。

坂口氏がファミコンRPGは作れないと思ってたという話はここから引きました。

  • その他ウェブサイトいろいろ。

ROMの分解・解析データを載せてるNEScartDBはセーフなサイトなのかよくわかんなかったのでリンクを遠慮します…

ファミコンゲームの画像はレトロフリークで出しました。