神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

『ドラゴンクエストへの道』再検証

『マンガ ドラゴンクエストへの道』は、エニックスが出版事業に参入してまだ日が浅い1990年2月に出版された。
同時期の「モンスター物語」などと同じB5判で、280ページ以上もある長編だ。
中身はご存じだろうが、堀井雄二中村光一エニックスと出会い、ドラクエ1を開発するまでの経緯をマンガにしたもの。

有名な本だ。
現在も本書は一線級の資料として扱われており、ときにはゲーム史の参考文献として使用されていることもある。

本の中にはフィクションともノンフィクションとも書いてないのだが、大部分は事実に沿って構成されているが、もちろん一部は脚色も入っているという見方が一般的である。
そこに罠があったという話を、今回やっていこうと思う。

いろいろあったが、結局入手するしかないという考えに至り、こうなった。

のち91年にガンガンコミックスから再編集版が出ているが、単純にオリジナル版のほうが内容が多いようなので、今回手に入れてない再販版のほうについては考えないことにする。

本書の刊行に至るまでの詳しい経緯は不明なのだが、複数の関係者に直接取材したうえで執筆されていると考えられる。中には本書が初出と思われる情報もあり、「堀井雄二のアップルフェスト行きはエニックスが主導したものだった」など、フィクションと疑われていたが後年に別のインタビューで裏付けが取れたという例さえある。
本書の資料性は、現在でも有効である。

今回、現在の知識に基づいて調べたところ、思ったより脚色らしい部分が少ないということがわかってきた。

とはいえノンフィクションというのも言いすぎだ。あくまで本書は事実に基づいて、ストーリー作品として構成し直したマンガであり、序盤に堀井雄二がコンテストの応募用紙を紙飛行機にして飛ばすシーンが出てくるが、さすがにこのような描写はフィクションだろう。確認しなくてもいいと思いたい。

だが注意すべき点はこうした少々のフィクションの部分だけではない。中には取材が不十分と思われる箇所や、専門性の高い内容の誤り、そして取材された当人が正しく説明していないと思われる記述などだ。本書にはフィクション、脚色とは別に、純粋な誤り、誤認、不正確な情報も複数存在している。

これらを正確に分類するのは、非常に難しい。今回、かなり過去の文献に遡って細かく調べたつもりであるが、フィクションと思われていた箇所が事実であったのと逆に、後年のインタビューで肯定されているにもかかわらず確証が持てない情報も見つかった。本書の真実度を確定するのは、現在極めて困難である。

本記事はそれを見定めようという試みだったが、思ったより大変な作業となった。

堀井雄二とプログラムコンテスト

第1章p17-34

昭和57年。堀井雄二週刊少年ジャンプのライターをやっていた。ある日、担当の鳥嶋和彦からエニックスのプログラムコンテストの取材を依頼され、取材用の応募用紙を渡される。もともと興味を持っていた堀井は悩んだ末この用紙を使い、自作品『ラブマッチテニス』で応募。見事入選しエニックスからゲームクリエイターとしてデビューしたのである。
12月の選考会の取材時には自分の応募作品も見ている。

~~~~

ゲームクリエイター堀井雄二の第一歩となる重要なエピソードだが、今回いきなりここで疑問が発生した。
この応募経緯、堀井雄二の複数のインタビューでもほぼ同じことを言っているのだが、古いインタビューから異なる情報が見つかった。

堀井雄二が応募したきっかけ

『月刊ログイン 1983年10月号』 いきなり気軽に参照できない資料なのだが、152~155ページでスターゲームデザイナーとしてポートピア連続殺人事件をヒットさせた堀井雄二がインタビューを受けていた。
p153
『ラブマッチテニス』は、もともと応募用に作ったものではなかったのだが、
>雑誌の仕事でエニックスに取材に行きまして、そのときプログラムを作ってる話になって、じゃあ応募してみよう、ということになったんです。

取材時に応募を促された?らしいこと、堀井さん本人が言ってたのだ。取材前にもらった応募用紙で葛藤する展開とは話が違っている。
また、この応募用紙を渡したのが鳥嶋和彦氏であるという話、実は鳥嶋氏のほうは覚えていなかった。

滝田誠一郎『電脳のサムライたち4』。『ゲーム大国ニッポン神々の興亡』という2000年の本の電子版(以前は分冊されてた電子版だが、去年1冊に改版された)。第10章がエニックス草創期の話だが、鳥嶋和彦氏にも取材している。
>「ぼくは応募用紙は手渡していないと思うな。でも、堀井さんがそういってるんだったら、ぼくが取り寄せてあげたのかもしれませんけど――」
鳥嶋氏、忘れてるというより否定的に述べている。著者の滝田氏も何か引っかかりを感じたのだろうか、鳥嶋氏が手渡したという内容で話を進めているものの、この発言はカットせず載せている。

ここで別の情報源も見てみる。『電脳のサムライたち4』でも引用してるのだが、エニックス社長(当時)の福嶋康博氏の著書『マイナスに賭ける! 「人並み志向」で勝機はつかめない』(1998年)という本がある。
これがおそらくエニックスゲームホビープログラムコンテストの背景について最も詳しい文献であり、堀井雄二についても言及がある。社長は後でわかったこととしているが、どうも堀井さんはエニックスを取材した際に、その時点で集まっていた応募作を見ており、その後に自分も応募した、らしい。福嶋社長の認識では、そうなってる。
ただし福嶋社長の情報源は不明。3人しかいなかったエニックス草創メンバーの一人である福島康博社長、その当時のことも当事者の視点で覚えているのだが、この堀井さんの応募経緯も自分が堀井さんと知らずにインタビューされた記憶で書いてるのかもしれないし、堀井さんや千田幸信氏から後から聞いた話を書いてるのかもしれない…

福嶋社長の著書には、コンテストについてもう一つ重要な情報が書かれていた。
プログラムコンテストは当初は応募が少ししか集まらず、危機感を抱いたエニックスは各地のパソコンショップや、応募経験者など、いろんなところに働きかけた。その結果、締切直前に応募が一気に増えて最後は300通もの応募があったというのだ。
さらに別の情報を追加する。『蘇るPC-8801伝説 永久保存版』(2006年)。コンテスト最優秀賞の森田和郎氏のインタビュー。森田氏もエニックスに声をかけられた一人であり、受賞作『森田のバトルフィールド』は締切1ヶ月前の限られた時間で制作されたものだった。
入賞作には同様に締め切りギリギリで届いた作品は多かったと考えられる。

この経緯を知っていると、堀井さんが取材の場で応募を促されたというのは、非常にあり得る話になる。
ともあれ別方面から同じ情報は出てきたので、83年のインタビューの信憑性は強い。堀井雄二は、後年の本人が肯定している通説に反して、応募前に一度エニックスを取材してから決断した可能性が高い。

堀井さんの取材の様子

一方、マンガによると堀井雄二は自作品が入選しているところを取材の現場で見ている(p33)。これも肯定するインタビューが複数ある。
取材の様子について、私が見つけた情報は以下の通り。

ログインのインタビュー(1983)
堀井雄二エニックス取材時に応募を決めた。

ドラゴンクエストへの道』(1990)
堀井雄二は12月の選考会の取材で自分の作品を目撃した。モニターが並んでいる部屋が描かれている。

『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』(2000)
堀井雄二は発表当日の取材で、モニターが10台くらいあった会場で自作品を見た。

『ゲーム・マエストロ VOL.1』(2000)
堀井雄二は発表の取材にいったら入賞作に入っていた。

『超超ファミコン』のインタビュー(2014)
堀井雄二は応募作が集まったと連絡を受けてからエニックスに取材に行って、13台のマイコンが並んでいた会社で、自作が候補に入っているのを見た。

週刊少年ジャンプ秘録 ファミコン神拳!!』(2016)
応募セットを鳥嶋氏からもらって、取材の誘いも受けた。ついでに応募しといたら当日十数台のパソコンの中に自分の応募作があった。

堀井さんの発言が一貫してないように見えるのだが、後年のインタビューのうち、超超ファミコンのものは『ドラゴンクエストへの道』の内容に沿っている。99年のインタビューは微妙に内容が不一致である。『ドラゴンクエストへの道』でもパソコンが並んでいた当時のエニックス社内の様子が描写されているが、99年のインタビューではそれが授賞式と同じ日になっている。エニックスではなくホテルにパソコンがあったのか、授賞式と同じ日にエニックス本社でゲームを見てるのか。
堀井さんが本当に取材した日は、いつなんだ…?
また堀井さんは授賞式に取材で行ったという言い方をしているようで、入選者としての堀井さんが授賞式に呼ばれていたかは不明。

締切直前での応募作が多かったという福嶋社長の話から、堀井さんが取材の場で自作品を見たとしたら、それは入賞作が既に絞り込まれていた締め切り直前か、締め切り後だ。
あるいは、マンガでは一ヶ月前となっているが、授賞式の日の取材であったという話のほうが合ってるのか。
そして入選作をモニターの部屋で見たこと、これはホテルじゃなくてエニックスだと思うが、これも繰り返しインタビューで言っており、今のところ疑う理由はない。

だがログインのインタビューで、取材時に応募を決めたと言ってるのも信憑性は高い。それは候補作も決まっていない応募前の時点。
だいたい、エニックスとしては宣伝してほしいわけで、入賞作が決まってからでは遅いだろう。
要するに、堀井さんは応募前と応募後の2回取材している。

マンガみたいな展開による堀井さんのコンテスト応募経緯だが、ここは『ドラゴンクエストへの道』の内容はある程度事実に沿っている。しかし正確ではなく、1回目の取材についての情報が欠けている可能性が高い

…もう既に憶測だらけなのだが、果たしてこんな調子で大丈夫でしょうか…?
この堀井さんの応募経緯、合ってても間違ってても大した影響はない気もするのだが、こんな些細な情報でさえ確かなことが言えない、かなり調査が必要ということが伝わるだろうか。そして1983年までさかのぼって複数の資料で検証した私の結論は、これまでのどんなインタビューにも書いてない「2回取材してると思うが、よくわかりませんでした」である。
よくわからないのだ。

堀井さんが応募用紙を鳥嶋氏からもらったこと、自作品を取材で見たことは複数のインタビューで裏付けられており、これまでその真実性に対して疑問すら持たれていなかった部分なのに、わからなくなった…

追記:スベアキさんから別のインタビューの情報をいただきました。テクノポリス1984年6月号の堀井雄二インタビューによると、やはり取材依頼を受けた際に応募用紙を受け取っており、取材前に応募して数日後に取材に行ったら自分のゲームが動いていたとのこと。
数日で?!

「取材前に応募した」のほうが正しいとすれば、取材後に応募したっぽいログインのインタビューの言い方と、福嶋社長の情報の両方が間違っていたか。
しかし数日後というのはまた…
マンガでは『ラブマッチテニス』は入選候補として動いていたとしているのだが、あまりに選考が速すぎる。
福嶋社長によると締め切り直前まで本当に応募数が少なく、1週間前でも20作とかのレベルだったらしい。堀井雄二の応募時期が締め切り直前だったという情報は今のところない。
『ラブマッチテニス』も、この「ギリギリじゃない時期の応募作」に含まれていたのだろうか?
それなら選考はかなりの速度で進み、数日も猶予があれば入選候補として残っていたはず。集まっていた作品全てが入選候補だったかもしれない。
そして、自作品が動いていたのを見たのは、授賞式の取材ではない。

この説なら、マンガの描写は実情に近づく。でもわからない。
現状では各種インタビューのどれが正確か特定できず、微妙に辻褄の合わない情報が飛び交っている状態のようです。

堀井雄二ウィザードリィの出会い

第2章p45-54

昭和58年11月、エニックス堀井雄二たち優秀なプログラマーを集め、アメリカ市場の見学会を行った。サンフランシスコのアップルフェストで堀井雄二中村光一の2人は「ウィザードリィ」を発見。
翌年1月、堀井雄二はアップルのパソコンを購入し、ウィザードリィにハマった。

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このエピソードは多数検証するポイントがある。一つ一つ見ていこう。

エニックス主催のアメリカ旅行

まず、なんでエニックスがフリーの堀井さんたちをアメリカに送るんだ?という一見フィクションのようにも感じられる話なのだが、ここは事実である。

ドラゴンクエスト 伝説と勇者の誕生:App Store ストーリー

堀井さんもこの件を何度か言及している。だが細部はマンガと違う。
実はこのアメリカ行きには鳥嶋和彦氏も同行しており、ここで取材もついでにやってジャンプの記事にしてしまったのである。そのことが本書ではスルーされている。

こっちの堀井さんの対談などでも、この旅を「ご褒美」と言ってて遊び気分なのだが、エニックスにしてみればマンガに書いている通りで、優秀なクリエイターに市場調査をやらせ成長を図る意向もあったと思われる。
たぶん、ここの表現は合ってるだろう。

ちなみに本書では昭和58年11月としているが、実際に行ったのは「1983 Applefest San Francisco」と思われ、正確には10月28日から30日らしい。帰国したのが11月といったところか?
終了後に他の場所も回っていたのかもしれない。

Wizardryの登場

p51
アップルフェストの会場で中村光一が噂のウィザードリィを発見、堀井さんと二人で喜んでいる。彼らはウィザードリィ自体は知ってたという描写になっている。
1981年に発売したWizardryだが、実は1982年には既に日本でも出回っており、1983年には既に『ログイン』誌上でも2回も特集記事で紹介されている。10月には一定の知名度はあったはずである。堀井さんたちが名前を知っていたとしても何ら不思議はない。
マンガの通り、ウィザードリィが83年、そして85年ごろになってもまだ人気があり、まだまだ新しい衝撃的なゲームだったのは間違いない。そしてドラクエに直接影響を与えたのもWizardry
しかし、83年にはとっくに日本に紹介されていたのも事実である。堀井さんはわざわざアメリカに行ってこれと出会っているのだ。
ついでにログイン誌の編集者の河野真太郎(当時アルバイト)と出会ったのが、どうもこの旅行らしい(国産RPGクロニクルp275の鳥嶋和彦氏の情報)。
時系列を整理していてわかったが、堀井雄二はこの日本のRPG黎明期に、だいぶ遠回りなルートでRPGと出会っている。だが堀井、鳥嶋の両氏の発言を追う限りこれは事実であると考えるしかない。

マンガの描写と異なるところとしては、鳥嶋氏が同行していた話のほか、実は堀井さんはWizardryの面白さは当初わかってなかったというのがある。だから52ページのように、現地で中村光一ウィザードリィの話で盛り上がったというのはまずフィクションだ。
堀井さんたちは取材目的でもあったので、記事を書くためもあっていくつかのゲームを買って帰ったようなのだ(ラジオなどで言ってた)。Wizardryはその中のひとつであり、実際にプレイしたのは帰国後(当時のログイン誌によると、アップルフェストというのはソフトや周辺機器の展示会であると同時に即売会でもあり、気に入ったものをその場で買って帰れたようだ)。
帰国後にAppleIIの互換機も購入し、そこで鳥嶋さんたちジャンプ関係者とWizardryにハマりこむ。
ちなみにウルティマは帰国後に購入してるようである。

つまり1983年、既に名の知れたクリエイターとなっていたがRPGの波にまだ乗っかっていなかった堀井雄二、たまたまエニックスの厚意で行った海外で数ヵ月遅れでRPGに出会い、エニックス主催の旅行なのにジャンプの仕事としてWizardryを買って帰ったのだ。

堀井雄二RPGの出会いは、国内のムーブメントからズレたところでいきなり発生したものだった。いろいろ考えたが、なぜかそういう感じになってしまった…
Wizardryが日本にやってきた経緯において、堀井雄二の出会った海外直販ルートはイレギュラーなものだった。『ドラゴンクエストへの道』で描写している内容には大きな問題はないが、これをゲーム史上の話題として扱う際には注意が必要なエピソードだろう。
繰り返すが83年にはウィザードリィはログイン誌上で安田均らによる特集記事も書かれており、日本でも輸入品が東京のソフト販売ランキングに名前が出てくる程度には売れていた…当時のログイン誌を見る限り東京と大阪でも大差があるのだが、そんな中で、堀井さんと鳥嶋さんは東京で買いに行ける位置に住んでたのになぜかアメリカで直接買ってきた。そして複数のジャンプ関係者にこれが広まっていった。
堀井さんがRPGに触れたのも遅くはないが、早いほうでもない。

中村光一ウィザードリィ

このアップルフェストの描写はもう一つ重要な疑問がある。堀井雄二鳥嶋和彦がここでウィザードリィと出会ったのは間違いないが、関係者から中村光一についての言及がほとんど出てこない。
マンガでは中村光一千田幸信のほか何名かがアメリカ行に参加していたことになっている。

堀井、鳥嶋それぞれのインタビューで、コンテストの入賞者が何名か参加したことを証言しているのだが、他のメンバーは一切不明である。

一応この鳥嶋氏のインタビューでは、中村氏も行ってたような言い方はしてるように見える。そうなんだろうか。
どうも、他のインタビューから中村光一ウィザードリィの出会いはここである裏付けが取れない。

これはマンガにもヒントがある。p66。
ドアドアファミコン版が出た1985年頃。前年(1984年)の10月にアップルを買ってウィザードリィをずっとやっているという中村光一。さらっと流しているが、本書の通りだとすると、アップルフェストから1年ほどラグがある。

中村光一がポートピア開発時期にウィザードリィにハマっていたことは間違いない。ファミコン版ポートピアにウィザードリィ由来の3Dダンジョンを突っ込んだのも中村氏のほうだと言われる。だが、もともとSTGやアクションゲームの人だった中村氏が、いつ頃ウィザードリィと出会ったかという点については、今回いろいろ調べた中では特定できなかった。知ってたら教えてください。

中村氏の発言を追っていて気づいたことはあった。中村氏がウィザードリィに傾倒していたのに対し、堀井さんはウルティマにハマっていたのだと、中村氏が複数のインタビューで語っていることだ。

この情報、主に中村氏からしか出てこないことに気づく。
だが堀井雄二RPG原体験はウィザードリィであり、多くのインタビューでウィザードリィに言及する頻度のほうが圧倒的に高い。堀井さんはウルティマもやっていたが、ウルティマ派だったという話は本人からは出てこない。

思うに中村氏と堀井氏はウィザードリィにハマった時期がずれているのではないだろうか。中村氏がウィザードリィにハマったのがマンガの通り84年後半以降だとして、その頃には堀井さんはウィザードリィに区切りをつけ、ウルティマの新作やQuestronなど、初代Wizardryよりも後発の2DRPGに移行していたのではないだろうか。
ではないでしょうか。どうやって確認すりゃいいんだろ…

アップルフェストに話を戻す。中村氏からアップルフェストの話が出てこないのは、実際は参加していないのか、または参加はしていてもウィザードリィにハマったのはこのタイミングではなかった、と考えられる。
これは堀井雄二鳥嶋和彦にとっては重大なイベントだったが、他の人はそうでもなかったのではないだろうか。

追記:コメントでいただいた情報によると、85年の『テクノポリス』誌のインタビューに中村氏のRPG歴もある程度書かれており、ファミコンドアドア完成後、RPGを構想しつつも自身はまだウィザードリィにはハマっていない様子です。
やはりアップルフェストが影響した説、これはフィクションの気配が強いようです。

ポートピア移植経緯

第3章p62-77

ドアドアファミコンに参入したエニックスチュンソフト。次作にアクションやシューティングの企画を用意していた中村光一だが、千田幸信は「もっと新しいゲームを作りたい」と要望した。
その頃ウィザードリィをやっていた中村光一は、ここでRPGを提案する。だが千田はアクションしかやったことのないファミコンユーザーにRPGはまだ早いと判断。まず文字で情報を判断するアドベンチャーゲームを出し、RPGをその後に出そうという考えだった。
千田は『ポートピア連続殺人事件』を移植したいと考えていた。だがそれは容量的には可能だったが、キーボードのないファミコンへの移植は難しいことに気づく中村。千田が堀井雄二に相談したところ、堀井はコマンド選択方式で解決できるという。

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これが、マンガで語られたポートピア移植経緯。これも各種インタビューと内容が微妙に一致しない。
だが、そのインタビュー同士もそれぞれ一致しないのだ。

マンガでは中村さんがRPGを提案し、千田さんがまずアドベンチャーの後でRPGという判断をしているが、中村氏本人の話は違うようだ。

中村光一によれば、まずニュートロンの移植を提案したが大人向けのゲームということでポートピアに決まったという順序。
つまりマンガの言う「ファミコンユーザーにはRPGはまだ難しい」とはちょっと違い、むしろ最初から対象年齢が高い層を狙った、難しいゲームを出そうという意向があったことになる。そしてRPGの話もない。
ポートピアに決まってから堀井さんに相談に行ったのは、合ってるらしい。
堀井さんとは仕事以外での接点はあったようなのだが、初仕事はポートピア。

ところが、

RPGを出す前段階としてアドベンチャーという判断、マンガで千田さんが言ってるのと同じ話が、堀井雄二のほうからは何度か出てきている。どう解釈したものか。
「中村提案のRPGを千田さんが変えてアドベンチャー」というマンガの内容は事実と異なるように思うが、部分的には合っているのか。

アクションをやめてアドベンチャーを選んだという中村氏の証言は別のインタビューでも一貫しており、信憑性が高いと思う。ポートピアは全体的にゆるい雰囲気ながら内容はハードで、ファミコンを遊んでる子どもたちよりも大人に向けていると言っていいだろう。逆にマンガのように中村氏がRPGを提案したという話は、今回は見つからなかった。

そしてエニックス側の視点で考えれば、堀井雄二に声をかけたのも、ポートピアの移植だと決まった後のはずだ。
当時の堀井さんは既にアドベンチャーゲーム作家として名を知られていたが、ファミコンでの開発経験はなく、チュンソフトと組んだこともない。デビュー作こそテニスゲームだが、アドベンチャー以外のゲームを作れる人なのかも未知。アドベンチャーに決まっていなければ、ファミコンの新作を作りたいエニックスが堀井さんに声をかける動機自体が薄い。
ポートピアが念頭にあったから、エニックスは堀井さんに声をかけた。ポートピアでなければ、声をかけること自体がこのタイミングではなかったかも。
ここは中村氏の証言の通り、ポートピアに決まってから堀井さんに声をかけたという順序は信じられる。マンガとも順序が近い。

ではRPGを提案したという堀井さんの記憶は何なのか。記憶違いなのか?
堀井さんはといえば、85年発売の『軽井沢誘拐案内』で半分RPGみたいなのを作っており、この時点で既にRPGを作りたい意向は実際にあった。一方でファミコンにも強い興味があった。ポートピアに仮決定になったことで堀井さんのところに話が来たとして、そこでRPGの話を堀井さんが切り出した可能性は大いにある。そして千田さんとインタビューのようなやり取りをしてるんじゃないか?(堀井さんのほうは、ポートピアが大人向けと自覚してなかったのでは?)
そのときの記憶が、マンガでは何か誤って中村光一のものとして出力されているのでは…?

中村・堀井の発言の不一致だが、ここは両方正しいという説を今回は提示する。
つまり、中村さんは大人向けのゲームを出したいと千田さんと合意してポートピアに仮決定。
堀井さんはRPGを出したかったが、千田さんはまだ早いと判断。前段階としてポートピアで本決定。
この二つの堀井・中村情報は矛盾しておらず、そして『ドラゴンクエストへの道』はこの情報を聞き取ったものの、微妙に違えて伝えているものと、今のところは考える。
その中で千田プロデューサーが判断に強く関わっているのは、どうやら合っているようだ。

(なお、後述の多摩豊『テレビゲームの神々』も、上記「両方正しい説」と近い経緯を伝えていた。これも根拠の一つとなる)

マンガの描写の通りであれば、千田さんはRPGの時代が来ることは予見していたが、本人はRPGに詳しくなく、チュンソフトウィザードリィウルティマを勉強してる描写がある。これが本当だとすれば、何より千田さん自身にとってRPGは早かったのだ。

ファミコン仕様関連

ファミコンの仕様について、著者や取材者はある程度知識を持っているが、不完全である。知らなかったのだと思われる部分もあるし、説明が複雑すぎて厳密に書くことを断念したのかもしれない。
もっとも当時はファミコン開発をやっていた当事者でなければ完全な仕様はわかりようがなかっただろう。開発者でも本業のプログラマーでなければ知らないこともあったかも…
また任天堂ファミコンの仕様を公開したがらなかったらしいという話もあるので、90年くらいだと厳密な内容をたとえ知っていても書けなかったということも、ありえる。

だが現在はインターネットで解説があるので、素人の僕でもかなり正確な知識が手に入るのだ。
手に入るが、果たしてそこまで調べて書くべきなのか、迷いながら書いていることも先に述べておく。

ポートピアの容量

まずはポートピアの話をしているp70。
欄外にファミコンカセットの容量が書いてある。「当時のファミコンの容量は256Kビットである」としているが、ポートピアは320Kビット(40KB)。普通に間違いだ。

だがこの間違い、堀井さんに由来する可能性がある。

このインタビューなどで、堀井さん自身が絵も入れて32KBと言ってるのだが、実際40KBなのである。

ただし、32KBと間違えて記憶している、もしくは言い間違えている理由も考えられる。
ポートピア連続殺人事件のROM容量は合計だと40KBだが、これはカセットに入っている二つのROMの合計。うちグラフィック用のROMが8KBで、32KBがそれ以外のプログラム、セリフなどのデータだ。この当時のファミコンカセットは仕様上の制限でグラフィックとプログラムのROMが明確に分かれていた。プログラム部分の容量はファミコン発売当初から年々増えていって、この頃は32KBになっていたのだが、グラフィックはファミコン発売当時から85年あたりまでは8KBで完全に固定されていた。
つまり、この8KB部分は、85年時点ではロム容量と認識されていなかったのではないかと。32KBと堀井さんが記憶しているのは、厳密には違うのだが、むしろ自然な言い方のようだ。

このグラフィック用のROMをプログラムと別に持っているファミコン独特の仕様、おそらく著者は知らなかった。
同じくp70、アドベンチャーゲームについてファミコンの今の容量だとグラフィックを10枚くらい入れたらもうストーリー部分なんか入らないですよ」とマンガの中村光一が言っているが、ここが正しくない。このときのファミカセではグラフィックは完全に8KBしかない状態で独立しているのであり、ストーリーを削ろうが増やそうが画像は8KBに全部詰め込むしかなかった。
それもjpgとかの容量で考えてはいけない。8KBと言っても内訳はスプライトとBGが8×8ドットで各256キャラクターぶんで完全固定で、増やすことはできない。
言い換えればドラクエの16×16ドットのキャラクターで各64マスぶんが2セット。
これはファミコンが一度の画面表示で使える限界なのだが、この85年のファミコンカセットではカセット1本に入る限界がこれだけだった。86年あたりからディスクシステムの登場やカセットの進化で限界突破できるようになるのだが、ポートピアの時点では無理。

当然この制限下で10枚以上のグラフィックと文字を入れるのはものすごく大変だったはずだが(ポートピアは16画面くらいあるらしい!)、逆にポートピアのカセットではグラフィックを目いっぱい詰め込んでもストーリー部分の容量には影響しなかった。「グラフィックを10枚くらい入れたらストーリー部分なんか入らない」という心配は、85年時点のカセットにはなかったのであり、ここは本書の誤った認識。

しかしこれがドラクエ1の発売した86年以降になると全然話が違っており、87年のドラクエ2以降はさらに違う。本書の説明の通りグラフィックとストーリーで容量を削り合う状況に変化するのだが…
それが一般ユーザーにも常識となった90年の書籍で、この85年の状況を説明するのは非常に複雑な話になる…
著者がポートピア時点のファミコンカセットの仕様を知っていたかは疑うものの、知っていても厳密に書かれなかったとは思う。

ドラクエ1など、グラフィック側のROMに無理やり他のデータを入れているゲームもあるらしいが、ポートピアではその技は使っていないようだ。

追記:ポートピアの容量だとグラフィックの配置、色指定のデータだけでもバカにできないのでは、という指摘(大意)を若干もらいました。
BGとスプライトの配置情報はプログラム側の32KBに含みますが、ポートピアの画面は17×14マス(だと思う)。データの圧縮が甘ければ、1枚1KBくらいはかかるサイズかもしれない。
ポートピアもたぶんドラクエのマップ同様にデータも圧縮してると思いますが、…これは私がわかる範囲を越えているので誰かわかる人が教えてください。
「グラフィックを10枚くらい入れたらストーリー部分なんか入らない」とまでは行かないと思うのですが、これも決して軽いものではないようです。

よく使うカタカナの話

p144
ドラクエ1にはカタカナが20文字しか入っていない(ひらがなと同じフォントをつかっている「へ」と「り」も数えている)。
本書ではこれを「容量(メモリー)の問題」と表現しているが、これが後年よくある誤解の発生源になっていると思う。

ファミコン時代のドラクエでは、ROM容量が増えたドラクエ4でもまだカタカナ全部の使用ができなかった。これはロム容量自体が足りなかったわけではなく、ファミコンの仕様制限による。前述の通り、8KBのグラフィック容量の上限はドラクエ1の頃には突破されているが、一度の画面表示に使える限界は8KBのままだった。
だから常時用意しておく必要があるフォント部分に使える容量には限界がある。すなわち、容量(メモリー)の問題なのは合っているが、ROM容量の問題ではない。
いや、8KBが限界だったポートピアの時点ではROM容量の問題とも言えるのだが、ドラクエ以降は違う。
この部分は本書も「ROM容量の問題」とは書いてないので、著者は仕様を理解していたかもしれないが、読者には、かなりの割合で誤解を与えたのではないかと。
(FFのようにカタカナ全部使ってるゲームもあるので、他のグラフィックを削ってカタカナを優先すればできた。作る人の匙加減次第でもあった)

なおp144を読むとドラクエ1がポートピアと同じ20文字を選んだような印象を受けるが、実際は収録しているカタカナは変化している。

ペンダントの謎

それはさておき、p145の記述はおかしい。

「ポートピアでは
原作で「ゆきこのペンダント」だったものが
「ペ」のカタカナが使えなかったので「ゆびわ」に変わったいきさつがある」

と書いてある。これは私が調べた限りでは『ドラゴンクエストへの道』しかソースが見当たらない。そして、内容は明らかに正しくない。
なぜならポートピアに「ペンダント」を構成する文字は全て入っているからだ。「へ」だけひらがなで代用することになるが、あとは「ポートピア」「ボタン」などに使われているカタカナだけで揃う。

そして「原作」と書いてあるがPC版にペンダントは存在しない。実はポートピア連続殺人事件ファミコン移植時に内容にかなり増強が行われ、人物や証拠品が追加されている。本書のいう原作のペンダントなど、元から存在しないのだと。

ではこれは説明用に考えられたフィクションなのか?

証拠は意外なところから出てくるもので。

2023年にポートピア連続殺人事件のコマンド入力にAIを導入したテックデモというのが公開された。これもファミコン版をベースに微妙に内容が変わっているのだが、こちらでは指輪がペンダントに変わっている。
スクエニのスタッフがドラゴンクエストへの道を読んでそうしたのかは定かでないが、いずれにしろ堀井さんもチェックをしてペンダントになったはず。
本来はペンダントにしたかったが、ゆびわに変更されたというエピソード、それ自体は事実の可能性がこれで高まった。
ドラゴンクエストへの道』は、その理由の部分が正確でないのだ。

まずペンダントがあったという「原作」とは、原作のPC版ではなく、堀井さんの書いた本来のファミコン用シナリオか何かだろう。これは大した問題ではない。
で、実際にペンダントが使えなかった理由は何が考えられるだろうか。

ひとつはカタカナの「ヘ」がポートピアにないこと。ポートピアはドラクエ1と違い、ひらがなの「り」とカタカナの「リ」は区別しているのだが、ひらがなとカタカナで「へ」を共有すると言う発想が85年当時になかったのかも。…いや、あっただろう。さすがにこれは思いつくだろう。アリバイの「リ」が残ってるのは使用頻度が多いから残したか、文字を削るほどグラフィック容量が逼迫していなかったか。

もう少しありそうな説を考えてみる。「ぺ」を構成するグラフィックデータはポートピアにあるが、それを表示するプログラムのほうがなかった可能性だ。

こちらのtogetterの解析はかなり参考にしています。ここにまとめられていることによると、ドラクエ1では文字表示の際によく使う言葉を登録して呼び出せるようになっているのだが、「濁点、半濁点のひらがな」は単語と同じ扱いで登録されているそうだ。さらによく見ると「濁点、半濁点のカタカナ」は1文字で独立して表示すること自体できず、「ポイント」とか「ベギラマ」とか単語で呼び出したときにしか表示できないようなのである。

ポートピアの解析情報はないので僕の推測になるが、ポートピアもおそらくドラクエ1と同じ仕組みのはず。「ぺ」を表示するプログラムのほうに余裕がなくて用意できなかったのかも。
だが、この仮説でも不完全だ。ドラクエと同じ仕組みなら「ゆびわ」も単語登録されているはずで、「ペンダント」も登録可能だろう。

残る可能性は、純粋に容量の問題。文字表示はドラクエ1と同じ仕組みだと仮定して、その登録する単語の容量すらケチる必要があったのでは。5文字+半濁点の「ペンダント」より、3文字+濁点の「ゆびわ」のほうが推定数バイト軽い。
なにしろポートピアは最後に2キロバイトほど容量が足りず、セリフ全体を少しずつ、数バイトずつ削って何とかしたことを堀井さんが証言している(『虹色ディップスイッチ』の宮本茂との対談に書いてあった)。単語登録だって対象だろう。これは、ありえる。

あとは…この情報は単なる勘違いであり、ペンダントは実は出せたのだが関係者が間違えて指輪にしちゃったのかもしれない。
考えても理由はわからないが、とにかく「ペ」が使えなかったとする本書の説明は成立していない。だが指輪への変更は実際にあった可能性が高い。今後の研究が待たれる。

マルチウインドウ関連

少しページを戻してp121-126。
ドラゴンクエストの画面デザインを考えているシーン。移動モードはウルティマ様式の2Dと決まったが、コマンドやパラメータが画面に常に表示されている方式だとウルティマそのままになってしまう。オリジナリティのある画面デザインにしたい千田幸信
そこで中村光一が考えたのがマルチウインドウ形式だった。
マンガにはウルティマ等を参考にした画面デザインも描かれており、ドラクエのウインドウ方式との対比がされている。

ウインドウ方式は本書に書いてある通り、画面が広く使えるというメリットがあり、ドラクエの個性となったが…
この一連のページがかなりの禍根を残していることが、今回調べてわかった。

126ページ、「今でこそ一般的になったウインドウ形式 だが当時はビジネス用のパソコンに多少使われているだけだった」
本書発刊時点ではウインドウズ3.0もまだなのだが、90年までのファミコンRPGではよく見られた方式であり、ゲーム方面では一般的だった、という意味だと思う。
しかしこの認識で明確に間違ってるのは、ファミコンでもハイドライドスペシャルで既に使われていたことだ。
ビジネス用のパソコンにしか使われていないというのは誤りで、RPG界では既に広まりつつあり、ドラクエファミコン界ですら最初ではない。
PCでは前年までのRPGではWizardry3(Apple2版)やハイドライド2、ファンタジアンなどで採用してるのだが、85年当時のログイン誌の紹介記事を読むと、これらは重要な特徴として記事でわざわざ言及していたりする。つまりRPG界ではマルチウインドウを取り入れたものが既にあったというか、流行ってたようである。(ウィザードリィ3は同じAppleII版でも2以前と画面構成がだいぶ変わっているのだが、プレイ動画すら見当たらないので困っている)。

言うても86年ではまだ新しい試みだったろうし、ハイドライドスペシャルの発売もドラクエ開発の末期くらいなので、開発時に意識されてはいないだろう。
それに、このマルチウインドウは本書だけでは新しいアイデアの一つとして流していて、歴史的な認識は不正確ではあるが、重大な問題ではないだろう。
問題になってくるのは、後年の文献が本書を読んだ影響で「ドラクエのすごいところはマルチウインドウ!」と必要以上に持ち上げていることがわかってきたことなのだが、それは本書の責任ではないですね。

だが…この部分の指摘だけで話は終わらない。個性がどうのこうの以前に、ファミコンの仕様の制約により、このウインドウ方式が適していたのだが、そのことは本書に書かれていない。
ドラクエが回避したという当時のウルティマ形式、すなわち画面に枠を作ってパラメータ類を表示する形式だが、これはファミコンで採用しにくい理由がある。

左右分割方式を図示した。いかにも狭い画面構成だが問題はそれだけでなく、ファミコンでこのように画面を左右に分割、またはハイドライドのように枠で囲むとスクロール機能が使えなくなるファミコンの機能上、枠だけ固定してスクロールするということはできない。
PCでは珍しくもなかった枠付き画面デザインだが、ファミコンではハイドライドのように一度に画面を書き換える方式しか使えなくなってしまう。
実際このような画面構成のファミコンRPGはほとんどないのはご存じだろう。後発のRPGが軒並みウインドウ方式なのは、ドラクエの真似をしたというのも多いだろうが、単に機能上の必然で分割は難しかった。

実はドラクエこそが、この珍しい分割方式をやっている実例でもある。
レミーラを使用して周囲を黒で囲まれた状態、これは枠で囲まれている画面構成そのもので、これをやっているドラクエ1のダンジョンは、よく見ると8ドット単位でカクカク動いている。ダンジョン内ではスクロール機能が通常通りには使えなくなっているのだ。(技術的説明はtogetterにあったが読んでもよくわかりませんでした…)

ゼルダの伝説悪魔城ドラキュラのように画面分割してスクロールしているゲームもあるじゃないかと思われる方もいるだろうが、これは左右では無理だが上下分割ならスクロールできるのだ。(ラスタースクロール)

できるが、これも制限がある。上下分割画面での横スクロールは簡単なのに対し、縦スクロールはプログラムが複雑になるようで、やっているゲームはRPG以外を見てもかなり限られる。ゼルダの伝説デビルワールドなどの例だと、横がなめらかにスクロールしているのに対し縦スクロールは8ドット単位になっている。

縦スクロールが増えたドラキュラ2の例だと、画面分割自体をやめて、ライフ以外の情報を表示しなくなっている。このようにライフだけスプライトにすれば画面はすっきりするけど、装備、経験値、残機が表示できなくなってしまう。
画面上下分割での縦スクロールは、任天堂コナミのような技術力のある大手でも制約があったことがわかる。チュンソフトもそれは同じだろう。

しかしこの説明が単純に終わらないのは、まったくできないわけでもないことで…
もっと後の『悪魔城伝説』でもやってるが、ドラクエ1と同時期だと『ワルキューレの冒険』や『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』でも画面上下分割・縦スクロールをやっている。後発のドラキュラ2でさえ避けた表現を、これらは何とかしたようだ。
またしてもゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境の名前が出てくるのか…

ドラクエが画面分割を選ばなかった理由、画面が広く使えるというのも当然理由のひとつだろうけど、技術上の理由も間違いなくあった。できたとしても、難しい処理を入れる必要があれば回避したかっただろう。プログラムの容量だって余裕はなかったはずだ。
また、画面分割方式ができたとして、文字情報がアクションRPGより遥かに多いドラゴンクエストでは、結局マルチウインドウと同じくらい頻繁に画面を切り替える必要があったと思われる。
アクションRPGならプログラムが難しくても常にライフが見えている必要があるが、時間が流れないドラクエなら無理に分割方式を選ぶ必要はない。

なぜこうした技術上の事情をマンガに書かず、画面が見やすくなっただけの話にしているかというと、説明が長くなるからでしょうね…
実はこの件も『テレビゲームの神々』に言及があり、ファミコンは文字を出しながらスクロールはできなかったという技術上の事情をかなり簡潔にだが説明していた。

まとめると。マルチウインドウは技術上の問題を解決し、画面構成もすっきりする優れた方式ではあったが、新しいものではない。『ドラゴンクエストへの道』がこれを強調している経緯として、もう一つ気づいたこととして、中村光一氏個人の思い入れが強いと考えられる。

中村氏がウインドウについて語っているのは『ファミリーコンピュータ 1983-1994』(2003年)という文献のインタビューのp107。
>そこで思いついたのが、ウィンドウ方式。当時、UNIXなどの高級マシンやマッキントッシュが、この方式を取り入れ始めたばかりで、すごくあこがれていたんです。

要するに中村氏がこのアイデアを気に入ってたから、それが取材されてマンガにも反映されてるのだと考えられる。しかも着想元もマッキントッシュUNIXと、はっきり本人が言ってる。
中村氏が過去のRPGを知っていたかどうか、そしてドラクエ1マッキントッシュのウインドウが果たして機能的に近いのかという疑問もあるが、これらは重要ではない。本人がマッキントッシュを意識して作ったと言ってるのだから、それが一番強い部分なのだろう。

しかし、これは中村さん個人の思い入れが関わっての言及で、思い出として言及するのは完全に正しいが、新しさだけを見ると微妙な話になってくる。ファミコンの技術上の話にも言及するべきだし、この件はちょっとした表現の違いで認識のズレが起きてくる。本当にかなり注意してほしい。

また中村氏だけでなく鳥嶋和彦氏も言っているが、このウインドウ方式の優れている部分は「ピッ」と心地よいサウンドと共に出てくる、アクションゲームのような操作感の楽しさ。方式とは別にドラクエ1のウインドウ自体の完成度の高さもあった。これは新しさの問題ではない。

開発末期についての疑問

マンガのすぎやまこういちの参加時期が後年の証言と合わない。千田幸信の連れてきたすぎやまこういち中村光一の出会い、マンガではまだまだ開発途中、昭和61年1月ごろのエピソードになっているが、これはおかしい。

このインタビューなどで語っていることによれば、すぎやま先生の起用が決まったのは開発末期。既にマスターアップ段階だった。そしてわずか一週間かそこらで全ての曲が完成した。
これが本来のドラクエ1末期の状況だ。

開発末期の不自然な描写

p234以降
昭和61年春。敵の行動パターンが少なく、レベル15あたりからのゲームバランスが悪いことに気づいたスタッフはプログラムのやり直しを決意。
衝撃を受ける千田さんが提示した条件は一週間の開発期間延長だった。

~~~~

これは本書の中でも信憑性が低いエピソードだドラクエ1は確かに発売延期しているらしいが(延期発表時期はわからなかった)、末期に開発が難航したという情報は見当たらない。
p237には敵側にマホトーンラリホーがなかったという具体的な問題が書かれているが、他で聞いたことがない。この一連のエピソードには全く裏付けが取れない。末期にそんな大変な変更は、さすがに無理が感じられる。
付け加えるとドラクエ1は発売する前からもうドラクエ2を作り始めており、関係者もマンガに描かれているほど疲弊していた様子がない。

そして、すぎやま先生の起用時期が実際には開発末期。ここに開発末期のドタバタが重なっているとは考えにくい。
逆に楽曲が理由、千田さんのほうの要望での開発延期は実際に起きていないとは言えない。

後年に本書を参考に踏まえたインタビュー等でも、この「プログラムのやり直し」を検証しているものは見当たらない。読者にもフィクションだと思われているのだろう。最後にピンチが来る展開がマンガっぽいし。

こう思わせることこそが本当の罠であった。本書、すぎやま先生の登場時期もそうだが、時系列については不正確な情報がたびたび見られる。
であれば、「プログラムのやり直し」もそうではないのか?

ROMの仕様は変化したらしい

実は「プログラムのやり直し」自体は実際にやってる可能性が高い。発売直後に堀井さんが虹色ディップスイッチに書いていたことによると、ドラクエ1のロムは32KBだったのが開発途中で増えている。
これはグラフィック用のROMが従来の8KBから32KBに増えた(前述の通り、堀井さんの言う32KBは実際にはポートピアと同じ40KBだろう)のだが、実際に発売されたドラクエ1は、64KBのうち半分の32KBのグラフィック用ROMに強引にグラフィック以外のデータや、プログラムそのものを詰め込んでいるという特殊構成だった。

ここからは推測を入れるが…ドラクエ1の容量が増えたというのは、実際のところロムの仕様そのものが変更されたのであり、しかも仕様外の使い方をしている。これは開発のどの時期かは不明だが「プログラムをほとんどやり直す」というくらいの事件だったはずだ。
もちろんマスターアップ直前の話ではない。ROMの仕様を決めるのは任天堂の都合が大きく関わるため、開発末期に急に変更なんてことはできない。容量の増加はかなり途中の話だろう。
そして容量が増えてプログラムをやり直したことで、内容の強化もありえる。敵にマホトーンラリホーの追加…末期という条件を除けばありそうな話になってきたぞ。そのプログラムにかかった期間自体は一週間程度で済んだかも…
マスターアップ直前ではなかったとしても、その状況なら早期に開発延長、発売延期が決まったこともありえる。

ドラゴンクエストへの道』終盤、マスターアップ延期の一週間の内容は事実と異なる可能性が高いが、時期以外については特に否定する根拠がない。むしろ、かなり本当っぽいという意見だ。
そして、これは意図して順番を変更したフィクションではなく、取材者が時期を聞きそびれ、構成を誤っているのでは…?

そして思ったことがある。後年のインタビュアーたちの中には本書を読んだものもいるようなのだが、誰もこの部分の確認をしてない。頭からフィクションと思われていて、検証されていないのでは。
あったかどうかわからない「プログラムのやり直し」について、堀井雄二中村光一はインタビューで聞かれることはないので、裏付けも否定も出てこない。
本書の内容は、どこまで合っててどこまで間違いか、当事者による十分な検証がされていない。

堀井雄二が当時語ったドラクエ1のROM容量の増加、半端な問題ではないはずである。可能なら誰かが聞き出してほしい。

追記:モスアットさんから情報をいただきました。見逃していた記事なのですが、この件を聞いた人は、いました。

自身の性格については脚色が強いようですが、「つまんねえ」と言われてプログラムをやり直したこと、それで開発延期があったことについては肯定する返答。

この回答を読んでもまだ私は「それが本当に開発末期だったのか」という一点については疑問はあるのですが、現状では肯定情報がありました。
ただ、この件も堀井さんにとって「大きく困った」には含まれないのか。
あるいは、言って一週間の出来事なのでマンガほど苦しまずに直すことができたのか、苦しんでたからこそドラクエ2始動のバネになったのか…いろいろ考えることが出てきますね。

検証が難しくない項目

ここまでは検証が大変だった部分。そして何もわからなかったわけだが…

ここからは簡単な検証で済む部分をあげていく。

第1章

p15
ゲーム・ホビープログラムコンテストが告知されていた昭和57年。中村光一の「アタッカー」という作品が雑誌に掲載されている。
中村氏がこの当時既にプログラマーとして名を馳せていたのは事実だが、この時期の記述については本書では十分でない。「アタッカー」は雑誌に掲載された時点でのタイトルは『スクランブル』(コナミのシューティングの勝手移植)で、のちにタイトルが変更されたもの。
そしてこれがプログラムコンテストの直前のように描写しているが、実際に掲載されたのは『I/O』誌の82年1月号とのことで、中村氏が高校2年生のころ。マンガとは時期が合わない。
いずれも大した問題ではないのだが、この程度の省略・脚色は当然に入っていると考えられる。

なお本書ではプログラムコンテスト開催時に中村少年は既にパソコンを持っている。中村氏がパソコンを持たずにプログラムをしていたという話が一部で伝わっているようなのだが(鳥嶋さんが一部インタビューで言ってる)、それは間違い。高校時代にアルバイトでお金を溜めてPC-8001を購入し、その後プログラムで稼いだ金で8801に買い替えたそうだ。

p18
28歳の堀井雄二。欄外のプロフィールに本田一景の名義で漫画原作者をやっていたと書いてある。本書発刊時にはもう漫画原作者としては活動しておらず、過去形なのだが、ログイン誌のインタビューによるとこちらの名義でのデビューは83年7月ごろ、実はゲーム業界でのデビュー後、ポートピア発売より後だったりする。
堀井さんの経歴を追うと、もともとマンガ家志望であり、在学中に漫研でライターとして成功した後で劇画村塾に入り、どうもその後でマイコンを買って(81年発売のPC-600182年の正月に?買ったらしい)プログラムを勉強し翌年デビュー、ポートピアを当てた後で、ようやく漫画原作者としてデビューという、特に81年あたりからの順序が入り組んでいるのだが、マイコン購入後から始まる本書はそこまでは書いてない。
p18の時点では劇画村塾に参加後だが、本田一景名義での活動はまだなので、ここで過去形で書くのはやや問題がある。p35でもこの順序を間違えてると思しき描写あり。

p18
パソコンゲームのやりすぎで寝ぼけている堀井さんに「またゲームかい?」と呆れている鳥嶋和彦氏。きわめて何気ない描写だが、これもおかしい。当時の鳥嶋氏は相当のゲーセン好きであり、堀井雄二と出会ったのもゲーム仲間のさくまあきら経由。堀井さんと夜中の4時までゲーセンで遊んでたこともあったという。だから、本書のように堀井さんが徹夜でパソコンやってた日があったとしても、おめえ人のこと言えねえだろとなるわけである。
言ってるかもしれない。

p33
エニックス社内と思われるパソコンの部屋。エニックス社員らしい人物が千田さんを入れて4人描かれているが、当時エニックスの社員は千田さんを入れてまだ3人だと思う。

p35
コンテストの授賞式。中村光一は上京するために受験勉強をしているというが、これはフィクション。『ゲームマエストロ』などのインタビューで言っているが、中村氏は電気通信大学に推薦で入学しており、受験勉強はしてない。
こんな自然なところがフィクションだとは気づくまい。

第2章

p44
PC版『ポートピア連続殺人事件』の発売日を昭和58年9月としているが、これは違うらしい。正確な日付不明だが…PC-6001版が6月発売だと言われてる(6月発売とする当時の広告は私もログイン誌で確認した)。
マンガに描かれているパッケージには「PC-8801・PC8801mkII」と表記、ゲーム画面も8801版を模写したものが掲載されているが、最初に発売されたのは「PC-6001・PC-6001mkII」版、のはず。
また88版についてもマンガのように「PC-8801・PC8801mkII」と併記されているパッケージはネットでは見つからなかった。あるのかもしれないが、謎。

どういうわけか、88版のほうが先に発売してるという情報は古くからあるらしく、漫画の描写が正確でないとして、何か間違いの由来もありそうだな。

p51
欄外の注釈でウィザードリィを「コンピュータRPGの元祖であり、代表作」と書いているが、これな…
市販されたパソコン用RPGでも1978年まではさかのぼれることがわかっているのだが、これは最近まで知られていなかったわけではなく、本書より古いログイン誌上でもウィザードリィウルティマより後発であることや、ウルティマより古いゲームの存在は言及があった。
1981年のWizardryは十分古いことは事実だし、大きな齟齬はないかもしれないが、あえて元祖と書くべきではないとは思う。
ご存じかと思うが、この誤解は本書以外にも90年代以降にかなり見られるようになる。80年代の文献を読めば78年の『Beneath Apple Manor』などを紹介しているものもあったのだが、どうやら80年代前半のWizardryの圧倒的な人気と、「ドラクエのもとになったRPG」という情報との合わせ技で、いつの間にかWizardryが元祖RPGというふうに読み替えられたようである。本書が発祥の誤解ではないようなのだが、誤解を広めた一因としては本書も指摘できる。

p53-54
堀井さんが「アップル社のパソコン」を買っているが、描かれているのはなぜか初代マッキントッシュになっている。これは間違いで堀井さんが買ったのはApple2の互換機。またウィザードリィも日本語パッケージになっているが、アメリカで買ってきた堀井さんが持ってたものではない、はず。
この時点では日本版パッケージは存在しない、と思うが…
堀井さん周辺で宮岡寛が持っていたものはスタークラフト社の翻訳マニュアルがついてるバージョン(詳細分からず)だったようなので、日本語が書かれているパッケージもあったのかも…わからん…
漫画では昭和59年1月となっているが、これも間違いで、ジャンプの記事のタイミングを考えても、どうやら前年のうちに買っているようだ(85年ごろのログイン誌の宮岡寛の文章より、83年中に買っていることを確認)。
鳥嶋さんによるとまだまだアップル2の正規品は高く、買ったのは13万8000円とかで買えた互換機らしい(2016年のファミコン神拳の対談など)。

第3章

p62
チュンソフトの設立は昭和58年と書いてあるが、昭和59年4月設立の間違い。またこの章は既にファミコンドアドア(昭和60年7月発売)より後になっているので注意。前章の最後で1年ほど時間が飛んでおり、チュンソフト設立直後の苦労は飛ばしている。

エニックスファミコン第2弾『ポートピア連続殺人事件』の発売は11月。制作は2~3ヵ月と中村氏は言っており、ドアドアの発売後くらいであってるのかな。

p64-66
中村光一はアクションやシューティングの企画を出していたという描写。実際に中村氏は最初にニュートロンを提案したようだ。
で、本書で提案しているのは、ニュートロンのほかに『ドアドア2』、そして『究極ファイター』である。
ドアドアの内容強化移植のドアドアMkIIというゲームは存在するが、ファミコン版がそのMKIIをベースにしているはずで、ドアドア2を提案するタイミングではないと思う。
究極ファイター…なんだろうこれは。シューティングか、格闘タイプのゲームだろうか。
ニュートロン以外は創作だと思うが…

p75-76
ファミコンのポートピアには、パソコンのアドベンチャーゲームで使おうと思っているコマンド選択式を採用すればいいという堀井さん。だがコマンド選択式を実装したPC版『オホーツクに消ゆ』は1984年12月に発売しており、ファミコンドアドアよりかなり前だ。

オホーツクに消ゆ』は発売がアスキーなので、本書で詳しく触れたくなかった可能性はある。
でも時系列がおかしいのは脚色じゃなくて、単に関係者の記憶違いかもしれない。特に、このファミコン版ポートピアの開発初期と重なる1985年4月には『軽井沢誘拐案内』というもう一つのアドベンチャーエニックスから発売されている。マンガで想定してるのはこっちなのかも?

なおコマンド選択式自体もオホーツクが最初ではないようなのだが、Automatonの堀井さんの発言を見る限り古い作品は知らなかったようである。

p82-84
エニックス社員の「保坂」という人物が出てくる。既に売れていたポートピアの次作にロールプレイングゲームに手を出すと聞いて、それは失敗すると発言している。
エニックスにいた保坂というと、本書の翌年創刊する少年ガンガン初代編集長の保坂嘉弘氏が有名だ。ネット上の本書の記述でこの人がそうだということになってるが…
これ、その保坂さんなのだろうか。本当にこんなこと言ってたのだろうか。気軽に名前出していい人物だったから名前を借りたのか、深い意味はなくなんとなく保坂さんの名前を借りただけかもしれないし。
そこまで珍しい苗字でもないし、エニックス関係から持ってきた名前ですらないかもしれない。
何もわからない。千田さんがこれと近いことをどこかで言われてた可能性自体はあるが、このページの人物が保坂嘉弘だと断定はしないほうが良いだろう。

なおドラクエ1は開発期間5ヵ月くらいとされ、実際にはポートピアの発売前から始動してる感じである。だからポートピアが売れた後だとするこのページは時期も合わない気がするのだが、これもはっきりしたことは言えない。

p97
鳥山明が出てくるが、愛知県在住の鳥山先生が、ドラクエ1の企画時点でエニックスを訪れていたかは不明。
ところで鳥山先生のドラクエ参加経緯は本書に書いてないのだが、どうも情報が安定しない。堀井さんから依頼したという話と、鳥嶋氏から堀井さんに話を持ってきて依頼したという言い方をしているものもある。間に鳥嶋さんが入っていたことだけは確かである。
また鳥山先生と堀井雄二は既にジャンプの仕事で面識があった。

98ページの欄外に、鳥山先生「ファミコンゲームにも熱中していた」とあるのだが、これは本人から否定的な発言がある。
ところがその否定も正確な情報ではない…

このことは以前の記事で言及しましたが、少し前に追記もしています。86年時点で鳥山先生はファミコンを知っていたと思うが、詳しいということもない。主にやってたのは『スパルタンX』で間違いなく、ゲーセン歴はそこそこあるがファミコン歴自体は浅い。

そして鳥山先生がファミコンに熱中していたと、90年時点の堀井さんたちに信じられていたことも、どうやら間違いない。鳥山先生がポートピアをやっていたと堀井さんは誤解していたらしいのだが、その経緯を考えると依頼したのはポートピア発売後ということになるが…だとすると依頼を受けたのは12月なのだろうか。
おおまかにはこの経緯は判明したと思うが、細部がわかりきらない。

第4章

p106以降
マンガの中で、堀井さんは東京都の大島の自然の中でファンタジーに決めたということを書いているが、正直なところドラクエがファンタジーだったのはウルティマウィザードリィや、ドルアーガだのハイドライドだのその他の後発作品をそのまま持ってきただけにも見える。特にゲーム界ではファンタジー自体も結構流行ってた。
言うてもまだドラクエ的ファンタジーは世間やファミコン界で珍しいほうだったのは、そうではあるようだが。でも85年時点でドルアーガくらいはあった。
そうした背景のある中で、自然の中でファンタジーを考えたというのは、フィクションっぽさがある。

しかし堀井さんの中で指輪物語やD&Dなど、源流側のファンタジーへの意識が非常に小さいことは確かである。またウルティマの強力なSF要素と、ウィザードリィの和要素については、ドラクエでは切り捨てている。ファンタジーを選んだ理由もいくつかのインタビューで言っており、単に流行ってたから真似しただけでもないのだとは思う。

このインタビューとかで、和風を選ばなかった経緯などを少し話してる。

p116
大島にいる堀井さんからの連絡が届いておらず、一週間ほど行方不明状態になっていたというのだが、こういうのも事実だか創作だかわかんなくて困る…
この一連の大島のエピソードは他の文献で見たことはないのだが、こういうマンガみたいな話が本当だったりする本なのだ。現状でフィクションとの断定は不能

p121
ドラクエの画面デザイン「全体は「ウルティマ」型で、戦闘モードは「ウィザードリィ」型」という表現がされている。これもやはり禍根を残している記述に思う。
実のところドラクエ1の交互ターン制・タイマン形式の戦闘というのは、プレイ感はむしろウルティマ1のほうが近い(おそらく、その直接の派生作であるクエストロンも)。戦闘がエンカウント型ではなく、一対多数もあるウルティマ1をドラクエと同一視はできないが、モンスターが大きく描画される対面形式の画面構成はウィザードリィ固有の特徴ではない。

ただし、ドラクエ制作時の86年のウルティマは戦闘システムが変化しており、エンカウント型になり対面形式でもなかった。
すると86年視点ではドラクエのような対面型戦闘の代表作は、やはりウィザードリィということになるかもしれない。
もっとも、ウルティマウィザードリィ以外にも似た様式のゲームは存在した。あくまでこの2作はドラクエに影響した代表的作品というところだろう。

もうひとつ、この表現が不正確なのは、ウルティマも3Dダンジョンだったことが忘れられていることだ。
本書のような「ウルティマの移動+ウィザードリィの戦闘」説明だと、ウルティマもダンジョンは3Dであることが抜けてしまう。
これは90年代あたりの文献で、本当によく忘れられている。最近の文献でも忘れているのを見た。初期ウルティマは3Dダンジョンの比率もかなり多い。

ドラゴンクエストは正しくはウルティマの地上の2Dマップをダンジョンにも広げて採用した」のであり、この特徴はウルティマともウィザードリィとも異なる(この様式もドラクエ以前に例がある)
3Dダンジョンの採用も検討はしたのかもしれない。たいまつがあるのも3Dダンジョンの名残だろうか。

p129-133
千田さんがウインドウの中にレベルを表示するようにしろと強固に主張しているエピソード。ファミコンはパソコンと違う、「コミュニケーションメディア」であり、横で見ている友達にもレベルが見えたほうがいいと。
それそんなに重要かなあ?と今の僕でも思うけど千田さんの主張が通ったようでドラクエは現在の姿になった。
これも「テレビゲームの神々」に千田さんの主張だと書いてあった。

千田幸信氏はプロデューサーとして開発現場を制御し、営業の役目も果たしながらゲーム内容にも直接関与している重要人物なのだが、インタビューは少なく本書以外でスポットが当たることは少ない。
千田氏は完全にエニックス内の人物であり、本書の描写のうち千田氏の周辺については真実性が強い感じがある。

第5章

p140
まだ1985年。発売は来年2月を予定と千田さんが言ってる。
実際にはドラクエ1は4月予定として発表され、5月に延期されたとのこと。85年時点ではまだ発表もされてないはずだが、エニックス社内の視点でも2月は「少し厳しいかもしれません」ではなく、かなり無理に感じるが…ポートピアが2ヵ月でできたとすれば、1月完成で2月発売もできると思ってた時期があったのだろうか?

p148-152
『ムフフ♥ファンタジー』なる、あまり出来の良くないPCゲームを堀井さんと中村くんが遊んでいる。マニュアルが無駄に厚く、ゲームバランスが悪く、世界観を壊すようなギャグが出てきて、ご褒美絵がショボい。
このゲームは実在しないが、複数のゲームの記憶の集合体かもしれない。なんかこんな感じのゲーム自体は、あったかもしんない。
題材はドラクエと同系統のファンタジーで、RPG的なゲームのようだ。
かなり創作が入っていることは確実だが、ドラクエみたいなゲームはPC界にはもうあったということを読者に教えてるのであり、意外に重要な描写ではないかと思う。
また、この時期の堀井さんがエロゲーをやってて、一部はエッセイに書いてたのは事実である。
中村くんがどうかは知らん。

ただ、こういう出来の悪いのがあったとして、当時の代表的なゲームというわけでもないはずで、「昔のPCゲームは難しい」という90年視点での偏見が出ているようにも感じる。
まとめると、こういう反面教師のようなゲームと堀井さんたちは出会ったのだろう、という程度のエピソードと受け取るべきだろうか。

世界観を壊すギャグはドラクエにもあった気がした。

p155
橋を渡ると敵が強くなるというドラクエ1の有名な仕組みを紹介している。
これも一定の影響を残している記述。

橋を越えると敵が強くなることを町で教えてくれる人もいるが、正確な仕組みはこちらの攻略サイトが詳しい。

地上は見えない四角形のエリアに区切られており、エリアごとに出現する敵が変わる。これは『ドラゴンクエストへの道』でも説明している通り。
城から遠いエリアほど敵が強いわけだが、マイラの西側ではエリアの区切りがだいたい橋の上に設定されている。だから橋を渡ると敵が強くなるわけである。

が、全ての橋がそのライン上にあるわけではないというのがひとつ。
マイラ西の橋は該当しているのだが、実はこのラインで敵が全部入れ替わるわけでもなく、橋の東西どちらにも出る敵もいたり(ここ機種によって違うらしいが)、より強い「がいこつ」が出るのは橋を渡ってからもう少し進んだところだったり、町で教えてもらえるほどこの仕組みが効果的なものかは疑問はある。

とりあえず、機能してないわけではない。
この仕組みは存在するものとして、堀井さんはこの仕組みが気に入ってるようで、多くのインタビューで語ってきている。着想元はウィザードリィの階段らしいが、これが別にドラクエの発明だとも何とも言ってないことは確かだ。
これは堀井さんが考えて上手く行ったと思ってるからよく言及している。それは当たり前のことなのだが、同じような2DのRPGドラクエ以前にはなかったでしょうとは言ってないと思う。もちろんマンガでもそんなことは言ってない。
これもなぜかゲーム史上の発明的な雰囲気で紹介するものが存在している。その違和感を示すと同時に、それは本書を読んでから紹介する側の問題であり本書のせいではないと言いたいところ。

p163
鳥山さんのデザインアップは年明け早々だろうと言っている。
史実では翌月のジャンプに初報が載っているので、これはたぶん事実とほぼ同じだろう。

p170-190
すぎやま先生の起用に中村光一がかなり抵抗し、本人と会ったら打ち解けた話は本当らしい。
この件はいくつか中村氏とすぎやま先生のインタビューがあるが(私が気軽に参照できる資料見当たらず)、鳥嶋氏が聞いた話によるとマンガには書いてない容量の問題も抵抗理由だったようだ。さっきも貼った記事。

ファミコンの性能で鳴らせる音楽であるだけでなく、マスターアップも間際の時期で残された容量、メモリにおさまる曲でなければならないと考えると、それは確かにすぎやま先生がゲーム好きだと聞いてもなお抵抗すべきかもしれない。

すぎやま先生の本当の起用時期については前述の通り実際は開発末期。しかしそれが3月なのか4月なのかもわかんない。
ドラクエ1の広告等で「すぎやまこういち」の名前が発表された時期がわかる方がいれば教えてください。

本書には書いてないが、すぎやま先生のゲーム参加はドラクエが最初ではない。ドラクエの前にエニックスの『ウイングマン2』でゲーム業界デビューしているのだが、これも版権ものだから本書では触れにくいタイトルだったのかと思う。

p190
すぎやま先生が中村光一を中村監督と呼んでいる。チュンソフトの指揮官は社長の中村光一であり、堀井さんは常にドラゴンクエストの現場にいたわけではない。堀井雄二ドラクエでの肩書はシナリオライターであり、ディレクターの中村氏が実際に監督というポジションだったようだ。
ドラクエ1当時はそうなのだが、ひょっとして今でも堀井さんの肩書はシナリオライターなのかな…?

このドラクエ1については、すぎやま先生とのやり取りは主に中村光一がやったようだ。その様子は各種インタビューから伝わってくる。
マンガのように堀井さんがすぎやま先生との初回面談に同席していたのかどうかもわからなかった。同席しててもおかしくはないですが。

第6章

p194
堀井さんが手書きでラダトーム城のマップを1マスずつ描いてる。マンガのものは実物とは微妙に文字の配置や紙の質感などが違うものの、堀井さんは実際にこのようなものを描いていた。 

マンガに描かれているものは公開されている資料と非常に似ているが、微妙にレイアウトなどが不一致。これは実物を参考に描いた可能性が高いが、手元に置いて描き写すことまではできなかったのではないだろうか。

p197-198
シナリオの束が山積みになっているが、さすがにドラクエ1当時はこんなに多くはない。ドラクエ1のシナリオは「50枚くらい」(ゲームマエストロVol1)。ドラクエ2でも「A4の5ミリ方眼紙で、厚さ15cm」(ファミコン神拳奥義大全書 復刻の巻)。でかいファイルがあれば収まるだろう。
こりゃ本書執筆時に開発してたドラクエ4のイメージじゃないかな。
ドラクエ7は16000ページだそうです。

p201
本書では省略しているのだが、ドラクエ1のモンスターは堀井さんがラフを描き、それをもとに鳥山先生がデザインするという過程で制作された。「イメージどおり いやそれ以上ですよ」と中村さんがマンガでは言ってるが、特にスライムは堀井さんのイメージと全然違ったのである。このへんは本書では深く追求してない。

p210-211
広野を行く」だけ中村光一はあまりしっくり来ていない。これはどうも実話に基づくようだ。2011年の対談で語ってるとのブログを見つけた。

p213
「毎週一度すぎやまこういちも音楽のチェックにチュンソフトに通うようになった」と書いてるが、音楽はマスターアップ直前に1週間で作ったとする話と合わせるとありえないわけである。チュンソフトに来たことくらいはあったかもしれないが、何度も来るほどの時間的猶予はなかっただろう。
ドラクエ2以降ならあるかなあ。

p213
ダンジョンの曲、フロアごとに音程を変えるのは中村光一が思いついたことになっていて、すぎやま先生に相談してさらにテンポを変更することなった。

もちろん、すぎやま先生にこれを提案するタイミングがあったかは疑問である。音楽はチュンソフトで完成していたという話を踏まえると、その時点でダンジョンBGMのプログラムもあったんじゃないかと思うのだが…
しかし、本書でも仕組みを思いついたのは中村光一のほうで、すぎやま先生に相談したという順序だ。だから実際にすぎやま先生もその仕組みを作曲前から聞いていて、チュンソフトに渡す際にテンポについても指定を入れたかもしんない。
このエピソードは細部はフィクションだが、大筋では合ってそうな雰囲気もある。
ただこの件について他のソースは見つからず。

p226-228
堀井雄二はアクション性のないゲームが受け入れられるか不安を感じている。これは当時『虹色ディップスイッチ』にも「冒険」であると書いており、少なくとも安心まではしていなかった。冒険について千田さんが力説しているが、実は堀井さんの当時の文章に近いことが書いてあったのだ。
堀井雄二ドラクエの成功をそこまで楽観視はしていなかった。

p240
スタート地点でカギを開けないと出られないようにした。これは本当のようだが、これを提案したのが柿原さんになってるのは疑わしいところ。
本書のメインキャラクターの一人で、ほとんどゲームをやったことがないというエニックス社員の柿原さん(悦ちゃん)。彼女の実在は確認されていない。
しかし、架空の人物と言い切るだけの根拠もない。ドラクエのスタッフロールには該当する人物はいないが、エニックスの社員はゲーム関係以外にもいただろうし。

追記:コスプレサミット2023のファミ通のインタビューで、堀井さんは柿原さんの実在を否定してました。少なくとも堀井さんの知る人ではない。

p254
デバッグエニックス側の社員も総動員されている。これも本当かどうかよくわからない。ドラクエ1はまだそこまで巨大なプロジェクトではないはず…

p254
「虹のしずくを持っていても1/16くらいの確率で橋がかからない」というえらく具体的なバグ報告が紹介されているが、これまた他で聞いたことがない。
だから本当かもしれないわけですが。

p256
ロムに日付と時刻まで書かれているが、これはドラクエ2開発末期のエピソードだったような…ソース失念しました。
日付は4月3日午後1時。
『虹色ディップスイッチ』にはドラクエ1は4月初旬に完成したとあったので、どうも日付は史実を参考にしてる。
ファミコンはマスターアップからカセットの生産まで3ヵ月という話を聞くが、どうやらドラクエは1ヵ月ちょっとで発売されてたようだ。

p268
すぎやま先生が電話越しに「広野を行く」を流して開発終了を感動的に演出する場面。もちろん無理がある。すぎやま先生の登場時期はこの演出のために動かされた可能性はあるが…

p272
マスターアップは済んだが、またしてもバグで任天堂に直行する千田さんと中村くん。これは非常にフィクション感。
ドラクエ以外のゲームのエピソードかもしれないと思ったが、90年時点のエニックスファミコンではほぼドラクエしか出してないので、こういう話がエニックス周辺にあったのかは謎。

p277
ドラクエ4の打ち上げ会場にバニーガールがいる。いたんですか?

…いたのかもしれん。

p278
4から参加したという山川という女性。こちらは実際にスタッフロールに同じ苗字の人が確認できるが、何とも言えない…

p283
平成1年12月時点のドラクエの販売本数が出ている。90年版ではドラクエ1は140万本としており、ここからファミコンの終わりまでにまだ10万本ほど増えるらしい。

内容の不足箇所

ここまで見てきた疑問点のほかに、本書には重要な史実をスルーしている部分がいくつかある。

ファミコン神拳の情報

そのひとつがファミコン神拳と少年ジャンプの関わりについて。

当時、堀井雄二週刊少年ジャンプ誌上でファミコン神拳というコーナーを受け持っており、そこでドラクエ1の紹介を自分で書いていた。中にはここで記事を書きながら思いついた街の名前などもあるというのだが…この時期のジャンプの仕事についてはバッサリ切り捨てられている。
本人としては若干うしろめたいものはあったかもしれないが、書いておいたほうがいいだろう。

ファミコン神拳メンバーの参加

堀井さんだけではない。初期ドラゴンクエストにはファミコン神拳のメンバーが直接参加している。
堀井さん以上のRPG知識を持ち、ダンジョンマップやテキストの制作に直接参加した宮岡寛。説明書のイラストを描いた土居孝幸。タイトルロゴをデザインした榎本一夫
この3名については、鳥嶋和彦氏と共にスタッフロールにも載っており、重要なスタッフだ。
※キム皇はゲームに出てくるがクレジットされていない。

だが本書ではファミコン神拳メンバーは未登場。マンガに出てくる無名キャラクターの中にも、彼らだと判断できる人物は確認できない。

ファミコン神拳メンバーはエニックスにもチュンソフトにもアーマープロジェクトにも所属していなかった。エニックスとしてはそれほど近い立場ではなかったか。
または単に彼らに取材をしそびれているのかもしれない。

鳥嶋和彦氏について

ジャンプの担当者だった鳥嶋和彦氏だけは出てくるが、その関与はかなり薄められている。堀井さんにエニックスの取材を持ち掛けたことと、鳥山先生の起用に協力したところ、この2箇所でちらっと出てくるだけだ。
ちなみにマンガ中ではドクターマシリトに近い顔で描かれている。

実際は鳥嶋氏の関わりはもっと強い。
鳥嶋氏は、さくまあきらを通じて知り合った堀井雄二にジャンプの仕事をまわすようになり、外部ライターを積極的に起用する体制と共にファミコン神拳の枠組みを作りあげた。
エニックスの千田さんともプログラムコンテスト当時から直接やりとりしてきた担当者でもあり、その関係は90年代も継続する。
堀井雄二のアップルフェスト行きにもジャンプの取材名目で同行し、ウィザードリィを持ち帰り周囲に広めた重要人物。
ドラゴンクエストでも鳥山明に仕事を取り次ぎ、エニックスと鳥山先生の間に集英社が入らないよう手も回した

…ん?

いや、本人がそう言っとる。

ひとつわかっていることだが、鳥嶋和彦氏は集英社に対する遠慮がまるでない。
何勝手に話進めてんだおめぇ。

鳥山明の起用を進めた鳥嶋氏の目先の動機は、ファミコン神拳の記事のネタに使えるからという単純なものだった。
しかし長期的に見れば、ドラクエ情報をジャンプは独占で入手できるようになったし、鳥山先生のさらなる成長と知名度向上にもつながる。そしてドラクエ自体の成功にも直結。
マシリトが堀井さんと仲良しでドラクエを勝手に盛り上げたことで、結果としてジャンプにもかなりの利益がもたらされただろうし、鳥嶋氏は最初からドラクエはヒットすると思っていた側だ。
集英社を通さないことが集英社の利益にもつながり、鳥山先生と堀井さんの利益も増える。

そのようになる未来を我々は知っているし、鳥嶋さんなら当時からそうなる未来を予想できていたのだろう。それをわかった上で言うが、やはり鳥嶋和彦はだいぶ勝手に動いていたとしか思えない。
何より当の鳥嶋氏自身に直接の利益がないような…ドラゴンボールならともかく、フリーの堀井雄二を勝手に支援してエニックスドラクエを当てたところで社内で立場が強くなるもんじゃないだろう。
このような氏の行動は理解しがたい人もいると思う。

ファミコン神拳関係については書きにくかったのだろうと思える経緯もあるのだが、鳥嶋和彦氏については、むしろエニックス側が鳥嶋氏に配慮し、真実を書くことを回避したとも考えられる。
鳥嶋氏のゲーム好きはドラクエ史にも重大な影響があったのだが、その過程で集英社を飛ばしてたり、編集部で堀井さんと2時間ウィザードリィの情報交換をしてたなど、90年時点で明かしていたら問題になりかねない。
俺がエニックスの中の人なら気にするわ。

鳥嶋氏はゲーム開発には参加していないが、その独自行動にエニックスはかなり助けられたと考えられる。だがこれはいかにも危なっかしく、エニックスにとっても諸刃の剣だった。
本書の時点ではよかったが、この後なぜか鳥嶋さんは坂口博信と仲良くなり、数年後にはクロノ・トリガーの座組が勝手に出来上がって、千田さんのほうが困らされるのである。はた迷惑な人だ…

※たぶんチュンソフト堀井雄二を両方引っ張っていったファミコンジャンプ2でもクロノと同じくらいエニックスに迷惑をかけているはずだが、残念ながらこちらでの千田さんとのやり取りは伝わっていない。

ドラクエ前の世界

67ページ。ポートピアの移植が決まる前のところ。

本書はドラクエ前からPC界ではRPGがとっくに流行っていたことを、漏らさずに書いていた。
中村氏が本書のようにRPGを提案した事実は確認できなかったのだが、中村氏がウィザードリィにハマっていたのは間違いない。

ドラゴンクエストは、まだRPGを知らないファミコンユーザーを意識して開発されたものだった。
もうRPGを知ってるPCユーザーなら既にかなりいた。そのことをドラクエ史である本書で詳しく書く必要はないのだが、でも少しなら書いてた。
後の時代の人が「ドラクエから日本のRPGが始まった」などと大言を描いていたら、まさに本書を読み飛ばしていることに他ならない。

読み飛ばされないようにもっと詳しく、ウィザードリィウルティマの影響を受けた国産作品も既に登場して、ヒット作もあったと書くべきではなかったのか?という点は指摘はできる。
エニックスが関わらないので書きにくかったとは思うが。

ドラクエ後の動向

ドラクエ1は十分にヒット作だったのだが、本当にでかいドラクエブームが起きるのは2から先。ドラクエ1は86年時点ではスローペースで売れ続けてはいたものの、『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』と同じか、負けているくらいのヒット作に過ぎなかった。
このとき、まだファミコンRPGブームは起きなかったのだ。この結果に中村光一鳥嶋和彦などの関係者は満足していなかった。
RPGユーザーが300万人を超えて、何かが本当に始まるのはドラクエ3からかもしれない…

ドラゴンクエストへの道』が書きそびれているのは、この発売後の経緯のほう。だが、これも書かない理由が思い当たるのが一点。
肝心の堀井雄二の認識では、ドラクエは1から十分にヒットしていたからである。

ここは関係者間の認識が不一致なので漫画にしにくく、最後に客観的な売上だけ書くことにしたのかもしれない。
正確な数字か不明だが福嶋社長の著書によると最初は70万本で年内に100万本とのこと。福嶋社長ももっと売れると思っていた側で、「すんなりと100万本はいくだろうと思っていただけに」と少し落胆したことを書きつつも、当時のRPGの認知度から考えてみれば「むしろ立ち上がりで70万本も出たことのほうがすごい」と、98年の視点で冷静な見解を書いていた。

現在の評価

ドラゴンクエストへの道』。
詳しく見ると問題点がない本ではないが、現在でも十分意義のある文献であることは確認できた。
特にドラクエ史をこれから調べようという入門者にとっては、これは非常に優れている。多少抜けや間違いはあるものの、堀井雄二のゲーム業界デビューからドラクエの誕生までの重要な史実は抑えている。
フィクションが含まれることについても、それが明示的であることが逆に良いと言える。本書の内容は十分に信頼がおけると同時に、紙飛行機のくだりを見て本書が全て真実だと思う人はいないだろう。つまり、初心者は事実の確認を取ることを促される。

ただし、入手性は非常に悪く、マンガであったことが災いして図書館で発見することもほぼ不可能。
本来期待されていたであろう入門書としての役割を果たしていたのは90年代だけで、現在はおすすめできない状態にある。
「ゲーム史そのものの歴史」を知る上でも重要な一冊なので、なんとか入手性が改善されればいいのだが。

しかし本当に問題になってくるのは入門者ではなく、中級者以上がこの本を扱う場合だ。フィクションは確実にある。だがどこまでがフィクションかは全くわからない。
確実にフィクションや間違いだと言える箇所が、非常に少ないことが今回の調べでわかった。だが信じていいのか?堀井雄二は本当に大島で行方不明になったのか。プログラムのやり直しは本当に行われたのか。
開発末期の作り直しも、他のソースは全くないが逆に真実ではないと誰に言えるのか。
これは、21世紀にこの本を手に入れてるような人、入門を脱したと自覚している人こそ罠にかかると考えられる。
そして罠を解除する方法は現状ない。
私のレベルでは何もわからないことがわかった。

本書の中からフィクション性の低い、使えそうな情報だけを都合よく引用するようなことは、非常に、とても慎重にやらないとまずい。
事実に沿っていそうな情報こそがフィクションかもしれない。
一部の情報はフィクションっぽいが、逆に真実かもしれない。

本書の真実性は、おそらくまだ完全な検証がされたことがない。
本書にしかない情報の一部について、今後まだ研究が進むことを期待する。そのとき本書は上級者向けの資料として再評価されるかもしれない…

追記:

www.fukkan.com

復刊ドットコムに登録されていることを教えていただきましたので、紹介しておきます。票は結構入ってるのですが、登録は20年前で進展がなく、厳しい状況を感じさせます…

補足事項

『テレビゲームの神々』について

コンピュータゲーム関係でも多くの著書で知られる故・多摩豊氏の『テレビゲームの神々 RPGを創った男たちの理想と夢』(1994)という本に今回何度か言及した。この本は以前の記事でも書いたことを繰り返すが、
この本には執筆経緯が書かれていないのだが、どうも89年頃に書かれたものが何らかの理由で94年に発表されたようだ。一番不自然なのがプロローグでRPG「今から十年前の日本には、影も形も存在していなかった」と書かれているが、84年ならもう国産のブラックオニキスがあったことは本書の別のページにも書いてある。出版時期のずれを反映しきれてないのだと考えるしかない。

もうひとつの謎が、ノンフィクションとしつつインタビュー集のような体裁は取ってない本書だが、実は関係者から直接聞いた情報がかなり書かれているのではということ。
確証はないが…現時点ではそのように思っている。事情をご存じの方がいれば、教えてください。

この本で扱っているのは、主にゼルダの伝説ドラゴンクエスト(1~3)、そして桃太郎伝説の3シリーズ。
執筆時期は不明だが、内容は21世紀の現在でも一線級の内容。ゼルダドラクエ桃伝の開発秘話を当時の視点と、前提となる多摩氏の豊富な知識、観察力で、わかりやすくまとめている。現在では見つかりにくい情報、見逃されがちな視点もかなりある。しかも読みやすい。

上記で言及したが「ポートピアの移植と決まってから堀井さんに話を持って行ったら堀井さんは既にファミコンRPGを考えていた」のように、本書にしか見当たらない情報もあるようなのだが…
私が想像している通り、この本が多摩豊氏の直接の取材に基づいて書かれたものだとすれば、ひょっとしたら本書は『ドラゴンクエストへの道』以上に重要な資料の可能性がある。だが、想像であり確証はない…
多摩氏は宮本茂堀井雄二さくまあきらに直接取材したのだろうか。中村光一には直接聞いていそうな表現はあったのだが。

とにかく本書の内容は信用できるものだと私は考えており、今回の調査で補足情報として記載した。

ドラクエ大辞典の誤認

【ドラゴンクエストへの道】 - ドラゴンクエスト大辞典を作ろうぜ!!第三版 Wiki*

本書のフィクションを見極めそこなっている事例。アップルフェスト行がエニックス主催だったという事実を脚色だと誤認している。
そう、2024年現在では「アップルフェスト 堀井雄二」などでググれば一発で出てくるが、これは明らかにフィクションではなく事実。

これはWiki移転前の2014年に書き足された記述だった。しかし、この2014年の時点の編者は間違えてこそいたが、少なくとも調べて書いたはずである。まず、これがジャンプの仕事だったということのほうもあまり知られてないはずだからだ。当時のジャンプ本誌以外に情報源あるか、私は知らないし、ネットにも書いてあったかわからない。調べたうえで間違えたのならば、まあ仕方ない。どこまでがフィクションかわからない『ドラゴンクエストへの道』の罠にかかったのである。

だが2020年までに、この記事にろくに情報も足さずに余計な表現を追加してきただけの編者は、2016年にとっくに出ていたファミコン神拳のインタビューをはじめ、何も調べてはいない。「実際がどうだったのかは各自で検索した方がよいだろう。」と自分には何も調べる能力がないアピールをして記事の信頼度を下げるようなことをし、「苦笑を禁じ得まい」などという表現に苦笑するのはこっちである。
いや、こんなしょうもない話で笑えるほど俺は幸せ者じゃない。不愉快だ。
このように記事の質を下げることに余念のない編者が後から現れるのがWiki形式の弱点のひとつだということをここに晒し上げておく。

プログラムコンテストの裏話

エニックスの第1回ゲームホビープログラムコンテストの内情は福嶋康博社長の著書『マイナスに賭ける!』(1998)が最も詳しい。この中で福嶋康博が言っていたのは、設立当初のエニックスがうさんくさい会社だったということだ。

この当時同じようなプログラムコンテストはいくつもあったのだが、中には主催者が入賞作だけを安く買い叩く目的で、優勝を出さず賞金を払わない、ということがあったのだと。
応募が集まらない状況を見た福嶋社長は、エニックスもそのたぐいであると思われたのだと考えた。この不信感を取り除くため、エニックスは各地のパソコンショップなどを回り、ときには有力なプログラマーに直接会い、応募を要請した。
そして、必ず応募者の中から優勝者を出し、賞金も払うと約束して回ったのだという。必死だったのだ。
この時期の経緯はこちらのブログに詳しい。

この直接営業してまわったエニックスのやり方…別におかしくはない…よね?
福嶋社長としては、著書に堂々と書いており後ろめたいものはないのだろう。

中村光一氏は違うのかもしれないが、最優秀賞の森田和郎氏についてはエニックスに声をかけられた側だった。
そのことは『蘇るPC-8801伝説 永久保存版』(2006)という本にある。森田氏はエニックスの人の訪問を受け、食事もおごってもらったんだと。
森田氏はそれが「コンテストの1ヵ月くらい前」という言い方をしているが、「森田のバトルフィールド」の制作期間は1ヵ月しかなかったそうで、締め切りの1ヵ月前ということだろう。福嶋社長の話と合っているようだ。

また本書の別のページ、同じコンテストの優秀賞『マリちゃん危機一髪』の真樹村正 氏のインタビューがあり、そちらでもエニックスから声をかけられた旨を語っていた。
エニックスは複数の人に声をかけていたことも裏付けられる。

……。

蘇るPC-8801伝説』のライター&インタビュアーは、福嶋社長の著書は知らずに書いていたと思われる。
「森田のバトルフィールド」について、ライターは「23年目にして「実はエニックスからスカウトに来た」という舞台裏が明かされたわけだが、先進性の輝きはなお失われない」とフォローを入れているが、そのフォローを入れる前にエニックス方面で話を聞くなどもう少し詳しく調べて裏を取れなかったのか…。
森田氏は内実を知らなかったのかもしれないが。
スカウトという表現が…完全な間違いだとは言わないが、エニックスは複数の方面でスカウトしまくった(堀井雄二もそこに含まれる可能性がある!)という背景を知っていれば、フォローなど入れなくても森田氏の名誉が傷つくようなことはない。
むしろ、本書こそが森田氏など少数が仕込みで呼ばれたかのようなネガティブなイメージの元でもあったことがわかってしまった。重要な情報源であるのにだ。

ごはんおごってもらった森田氏はおそらくVIP待遇ではあったのだが、それ以上の優遇をしたという情報もなく、最優秀作に選ばれたのは普通にゲームの評価によるものと見るのが自然である、という見解をここに述べておく。

ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境

昨年からドラクエ1について調べていると、売上、容量、ウルティマ様式のマップ表現、スクロール技術などあらゆる方面からゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境の名前が飛んでくるという現象が発生し、これは、何。

堀井雄二『虹色ディップスイッチ』ではゲゲゲの鬼太郎ファミコン最初の1メガロムとして紹介しているがこれは間違いで、ドラクエ1と同じ512キロ(64KB)だそうです。当時のCMでも容量明言してるようだ。
ドラクエ1と同時期で、同じくらい売れた同じ容量の完全なライバルなんですな。
だがワンワンパニックと神龍の謎の間に挟まってるせいか、現代の文献で紹介しているものは非常に少ない。
当時のユーザーの知名度はかなりあるはずで、ゲームの評価も意外に(失礼!)高い。文献のほうが実情についていってないのだと考えられる。
このような有名なものに言及していくことこそが当時の空気を知るということではないかと思うのであるが、それにしても何でゲゲゲの鬼太郎妖怪大魔境をこんなに何度も言及することになるのか私にもわからん。

著者について

監修:石ノ森章太郎となっている。作画は「滝沢ひろゆき 石森プロ」とあるが滝沢先生(別名義「ちば・ぢろう」)が石森プロで仕事してたということらしい。どういう順序で執筆されたのかなどは謎。

原作はエニックス出版局で、脚色は和智正喜とあるが、漫画原作部分を和智正喜先生のほうが手掛けたということだと思う。
和智先生によると取材は小学館プロとのこと。

鳥山先生について

この記事を書いている間に鳥山先生が亡くなりました。
本書にはあまり出てきません。ドラクエ1についてはモンスターデザインが主であり、後のシリーズに比べて強く関与はしていなかったと思います。もともと発言の少ない人でもあり、初期ドラクエ史についても新しい情報はあまり出てこないと思っていましたが、やはり残念です。
私はまだ鳥山明のいなくなった世界をイメージできないでいる。