神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

ガンダムUCのep7を見た感想

ガンダムUCもついに終わり、そろそろ感想も出そろってきたみたいなのでいろんな人の意見を読んでみているが、ダメ出し部分もなるほどなあと思う部分があったり、意外な人が褒めていたりと、ep7は真面目に見てきて内容を噛み砕けている人たちほど評価が分かれている感じがする。
自分の場合は、これまで真面目に見てきたか怪しいものだが、ep7は大変良かったと思う。
というわけでep7については感想を書きたいと思ったのでネタバレは自重しない方向で書く。
特に良かったと思うのがフル・フロンタルについて。

フル・フロンタルの正体については、既に小説等で語られているのだが、アニメでは語らず、よくわからないまま終わっている。
そのアニメでもフル・フロンタルは「何者かが用意したシャアの偽物」くらいは何となくわかる(何者が用意したのかが最後までわからない)のだが、なぜかep7のフロンタルはシャアそのものになっていた。
以前、バナージの前で仮面を外したときのフロンタルは、そこまでシャアではなかった。フロンタルの性格はシャアにまるで似ておらず、その戦いぶりも赤い彗星の強そうな部分だけ取り出したようなキャラクターだ。池田秀一が演じているのも、別にシャアの魂が宿っているからではなく、単純に声もシャアに似ているという設定通りなのと、「シャアを演じる人物」という役には長年をシャアを演じ続けていた池田秀一が当然適役でもあるからで、フロンタルの演技も「「シャアを演じる人」を演じる池田秀一」で、シャアとは違う雰囲気のものになっていると思っていた。
ところがep7のフロンタルはシャアそのものだと判明した。それも逆襲のシャアの頃より年を取った壮年のシャアのそれだ。そんなシャアは見たことがないが、自分はそうだと思ったのだからしょうがない。フロンタルの実年齢も関係ない。フロンタルはあれから年を取ったシャア。
性格、性癖が違う?そんなことは問題ではない。
いままでも富野監督のいないところでさんざんシャアのキャラは歪められてきたじゃないか。だがSD化されて性格めちゃくちゃにされようと、コスプレデブの外人にされようと、シャアとして最低限の要素を備えた彼らはどうしようもなくシャアだった。
むしろ見た目だけ仮面をつけた歴代シャアもどきたちより、アゴ外人のほうがよっぽどシャアをやっている
仮説:池田秀一は神なのではないか。
人間だけが神を持つ。ガンダムにおける神は富野監督しかいないはずだが、もしもう一人選べるとすれば、それはシャア=池田秀一だ。池田秀一というキャラクターにシャアの姿が備わると最強に見える。
もちろん池田秀一だけではダメだ(ギルバート・デュランダルになる)。シャアの姿だけでもダメ(ゼクス、クルーゼ)。だがアゴ外人だろうとシャアの姿をしていればシャアの器としては十分で、池田秀一=シャアが力を貸せば、それはシャアになる。それほどまでにシャア=池田秀一は強すぎる。
フロンタルの場合、ep6まではシャアじゃないことを見せつけるようにモサい髪型をしていたので、器としては不完全だった。つまりep7でヘルメットで隠したことで器として完成してシャアになった。ガンダムUCは神を作ってしまった。
そんで歴代シャアたちのやるせない気持ちの権化のようなネオ・ジオングで戦って、最後は愚痴をこぼしながらシャア自身に諭されてどっか消える姿を見たら何か泣けてきた。ので、ep7は名作だった。

通称ビスト神拳について。
ユニコーンガンダムネオ・ジオングの起こす怪現象はイデオンとは全く似てない。原作者がイデオンだと主張したところで、ガンダムイデオンにするほどスタッフは軽率じゃなかったようだ。だがガンダム北斗の拳にすることには躊躇がなかった
死んでいった友(強敵)たちへの想い、愛や哀しみでパワーアップするのは北斗神拳の特徴。発光するユニコーンの姿はむしろスーパーサイヤジン。ネオ・ジオングの攻撃に至っては元斗皇拳
こういう要素も、もうガンダム界じゃ20年も前に機動武闘伝Gガンダムが通過した要素でしかなくて、呼べば来るユニコーンはモロにシャイニングガンダムだし、じゃあサイコシャードはやっぱりDG細胞
そうでなくても、仏教的意匠で迫るネオ・ジオングに対し、拳法で立ち向かうユニコーンの姿が80年代のジャンプ漫画的雰囲気に近づくのは当然な話で、ファーストを再放送とかで見た世代にとっては、ガンダムよりそれらのほうが馴染み深くて、引きずるものだ。
だからネオ・ジオングを飛翔白麗→剛掌波のコンボで解体し、最後はよくわからない波動で内部から破壊するという、およそ従来のガンダムとはかけ離れた描写も受け入れざるを得ない。これがイデオンじゃないことは誰の目にも明らかで、また今までのガンダムのオカルト描写と比べても一線を画しているのだが、いいんだ。宇宙世紀ガンダム世代で北斗の拳が嫌いな人間なんかいないんだから

閃光のハサウェイにつながる?つながらない?
カニック的にはグスタフ・カールやファンネルミサイルが出てきたので、閃ハサへのつながりを意識しているのは明らか。しかしながら、ストーリー的には強くつなげたいという意思は見えなかった。ブライトさんとローナン・マーセナスの親子論はハサウェイの結末を知ってると皮肉にも見えるという意見もあったが。
またネオ・ジオングのよくわからない時空移動技で未来の果てまで見せているのだが、そこには過去の映像しかなく、未来の映像は閃光のハサウェイはおろか、F91Vガンダムの姿さえない。この後の時代にはシャアがいないせいか?
このep7は宇宙世紀1世紀のラストであり、続きなんか必要ないのかもしれない。
ただ、ガンダムUC自体は、続きを作れそうだなとは思った。
箱の中身が世界を変えるほどのものではないということは、逃げ道を用意するかのように念入りに語られた。結局ファンネルを飛ばしたりバリアーを出したりするものはまだニュータイプと呼べないと解釈していいのだろう。このあたりのニュータイプ論への踏み込みは、正しい解釈かはともかく、解釈することから逃げてはいなかった。良かったと思う。箱の中身が暴かれてからの話は興味があるし、それはメカも出てくる必要もないし、F91にさえつながらなくてもいいんじゃないか。

話題のメカ描写については、やはりシュツルム・ガルスと称するカラテ・マシーンだ。ひどいことに、このシュツルム・ガルスの出るパート丸ごと無くしてもストーリーにまるで影響がないし、それどころかこいつのメカ描写はネオ・ジオング以上に宇宙世紀の概念を崩壊させているように見えるが、面白いから別にいいやと流されてしまった。
僕もこれでいいやとなったので、シュツルム・ガルスのことは好きです。
シルヴァ・バレトドーベン・ウルフの使いきれない武装の幾つかを使って見せたのも良かった。特にドーベンの最レア武装である脇腹のグレネードを使うマニアックさ。まあ、その脇腹のグレネードはシルヴァ・バレトでは削られているはず武装なのだが、個体差なんだろう。こまけえことは気にするな。

そんなわけでUCには結構文句を言ってきた自分だがep7には大変満足した。良かった!
となったのだが、最後に心配するのは、「ガンダムUCはファーストで訓練された世代へのご褒美であり、もはや社会現象である」的な論調で褒めていた人たちが、北斗の拳をやってるバナージ君を見てどう思ったのかなあということである。