神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

RPGブームの実像とスクウェアとファイナルファンタジー

前回の記事で『ファイナルファンタジー』の1作目の開発経緯を示した。

長く書いてきたこのFFの歴史シリーズというか、「FF史を追ってわかったことシリーズ」も、今回で一旦区切りをつける。

1987年12月に発売した『ファイナルファンタジー』は成功をおさめ、スクウェアは危機を脱したと考えられるが、その出荷数は最終的に52万本だと伝えられている。
十分なヒット作だった。だがドラクエ1にも遠く及ばず、ドラクエ3と比べれば2割も売れてない。
ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』の半分にも届くことはなかった。

これでも、FFはドラクエのライバルとしては当時有力なほうだった、と思う。
だがスクウェアはまだ頑張る必要があった。
(その頃、北米では10月に出たハイウェイスターの英語版『Rad Racer』が100万本以上売れており、FFより遥かにヒットしていた。
ただし発売が任天堂なので、スクウェアにどこまで還元されたかは不明。

年は明けて88年。『中山美穂のトキメキハイスクール』を終えた坂口チームはFF2の企画を進めていた(石井浩一は12月にはもう始めていたことが25thアルティマニアの資料から確認できる)。
2月には発売の延期されていたドラクエ3が発売され、100万本と言われる初回出荷数はあっという間に消えていった。ドラクエ3の行列は発売前からできることもわかっており、堀井さんも当日見物に出向いているし、報道の写真も残っている。
これこそがブームというやつだ。

RPGブームは本当にあったのか

実はここまでの記事で、実態を確認しないままわざとファミコンRPGブーム」と書いてきた。
ついにその正体に近づくときが来た。

ドラクエ2が発売した87年1月以降、100万本出荷されたファミコンソフトは以下の通り(ディスクシステム含む)。

発売日 タイトル 本数
1987/1/26 ドラゴンクエストII 悪霊の神々 240
1987/1/27 リンクの冒険 161
1987/6/26 燃えろ!!プロ野球 158
1987/12/22 プロ野球ファミリースタジアム ’87年度版 130
1988/2/10 ドラゴンクエストIII そして伝説へ… 380
1988/10/23 スーパーマリオブラザーズ3 384
1988/12/20 プロ野球ファミリースタジアム ’88年度版 109
1988/12/22 テトリス 181
1989/2/25 ファミコンジャンプ 英雄列伝 110
1990/2/11 ドラゴンクエストIV 導かれし者たち 310
1990/4/27 ファイナルファンタジーIII 140
1990/7/27 ドクターマリオ 153

情報源:CESAゲーム白書2022年版。

87年以降に100万本売れたファミコンソフトは12タイトル。86年までが27タイトルで、うち86年だけでもディスクシステム6タイトルを含む13タイトルもある。『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』をはじめキャラゲーのミリオンが重なっている86年は特別な年であり、ドラクエ1がここで埋もれていたようにも見えたわけである。
逆に87年以降はファミコンのさらなる躍進とともにドラクエがものすごい売り上げを達成したのに対し、ファミコンソフトの種類のほうも増えているので、1本あたりは分散してミリオン達成も難しくなっていったのだとわかる。

そしてドラクエを除くと、ファミコンで100万本売れたRPGは、わずか4つ。
ゼルダの伝説
リンクの冒険
ファイナルファンタジーIII
ファミコンジャンプ英雄列伝』
まともなコマンド型RPGはFF3だけだった。まあファミコンジャンプRPGなら、ゼルダの伝説RPGに含めたほうがいいだろうが…
他には、リストにない『桃太郎伝説』がおそらく100万近く。
ファイナルファンタジー』は2でもそこまでではない。

「86年のファミコンブーム、87年後半の技術進歩に、ドラクエの存在感によるブーストがかかった状態こそが真のファミコンRPGブームではないだろうか。」以前の記事で私はこう書いたが、あれは嘘だ
これは実態はドラクエブーム」であり、ドラクエ以外については「ファミコンソフトのジャンルがひとつ増えた」だけではないのか。本当の本当は、RPGそのものがブームであるように見せるほどドラクエ一強の勢いがあっただけではないのか。
ドラゴンクエスト以降、RPGの発売数は増えた。ヒット作もいくつかあり、一定の存在感もあった。だがそれでも、ドラクエ抜きのRPG自体にブームと言えるほどの勢いが果たしてあったのか。
相変わらず勢いのあるアクションやパズル、遅れて台頭してきたSLG、なんかミリオンを連発している野球と比べて、RPGはブームと言えるほど販売本数では勝っていたのか。検証されたことがあるのだろうか。

だからといって、私もそこを数字で検証する気はないのだが…
非公式な数値は参考にならないし、100万より下は私の調べられる範囲では売上わかんない。91年のメタルマックスが15万本ってのだけわかった。
確かに87年のファイナルファンタジーメタルマックスの3.5倍の52万本も売れたのであるが、時期の差もあり、どのくらいすごかったのかはよくわかんない…
確かなのはスクウェアが潰れてないという事実だけだ。
ファミコンRPGブームが本当にあったと言えるのか、みんなで話し合ってほしい。

ところで、しばしば雑語りで出てくる「ファミコンで氾濫したドラクエみたいなRPG」という論があるのだが、本当にそんなにあったか?
たとえば『貝獣物語』とか『桃太郎伝説』とか『ナイトガンダム物語』とかは画面構成はドラクエとだいぶ似てるけど…あれらはそれぞれ個性があり、そんなに安易なゲームじゃない。
もちろん、ドラクエという強烈な手本があったことで作りやすくなって、いくらか似てしまうということはあったのだろうけど。
ナイトガンダムは原作そのものがドラクエモチーフ多いので、意図的に似せてるだろうな。

ゲームボーイRPG

88年のファミコンRPG、『貝獣物語』などの有名タイトルもあるが、意外にまだ目立ってない感じがする。
その中で年末に間に合わせたFF2は76万本くらい売れたらしい(売上の情報源あやふや)。87年のライバルである桃太郎伝説女神転生ヘラクレスの栄光ウィザードリィウルティマも88年には続編は出ておらず、後発のファイナルファンタジーと、先輩のディープダンジョンだけが手数で先んじていた。

89年の『ケルナグール』ではFFネタを早くも使っているが、リンクの冒険から続くバトンの受け取り方としてはいろいろ間違ってた気がするな…

いまだ北米のハイウェイスター以外のミリオンを持たない88年末のスクウェア次の一手は、ゲームボーイ進出だった。
FF2完成後、そのままFF3の企画を考え始めていた河津秋敏だったが、坂口博信の指示で石井浩一と共にFFチームを離脱、発売前のゲームボーイの企画を始めることになる。これがFF2の完成直後、まだ発売前の話だ。
(※このとき宮本社長がテトリスのようなゲームを要望した話がよく出てくるが、どうも企画スタートはアーケードでテトリスがブームになるより前だった)

坂口の指揮を外れた河津・石井が好きなように作った『魔界塔士Sa・Ga』は89年12月に発売され、スクウェア最初のミリオンヒットを達成。後の『ポケットモンスター』まで続くゲームボーイRPGの基礎を、1作目であっさり築いてしまった。
わずかに発売の遅れたケムコの『セレクション 選ばれし者』よりも知名度で大きく上回っており(こちらも続編が出る程度には売れてたようだ)、既にファイナルファンタジースクウェアブランドが強力になりはじめていたこともわかる。コミックボンボンの漫画『ロックンゲームボーイ』でも扱われていた。

FF大躍進の謎に迫る

サガに続く『ファイナルファンタジーIII』の出荷数は140万本とされている。勢いに乗って売上を伸ばしたのだが、割と在庫はダブついていたという話も伝わっているようだ。
スーパーファミコン 任天堂の陰謀』という本に、この頃のFFの在庫が初心会で問題になったという記述があるのだが、この3のことらしい。(この話は、この本を教えてくれた初心カイ氏の記事でも言及しています。またこちらのFF3の紹介サイトでも書いてますね)

FF3は面白さが伴ってるのでわかりにくいが、さすがにFF2の1.8倍は多すぎには見える。
だが…明らかによくできてた。
あんなにすごい出来でもドラクエ4の半分以下なのだから、むしろ少なすぎると思うくらいだ。多少問題になったものの、どうやら不良在庫として残り続けることもなく、FF3はラスダン以外大好評のまま売れていったと考えられる。

ここで重要なのは、おそらくサガの存在もスクウェアブランドへの信頼感につながっていたことだ。FF最初の大躍進の背景にはRPGの人気もあったが、スクウェアそのものの強さも広まりはじめていた。魔界塔士サガも、まだ魔法やモンスターの一部をFFから受け継いでおり、派生タイトルという側面もあった。
FF2から3へ、かなりすごい伸び方をしてるのだが、これは間に初期ゲームボーイブームに乗ったサガが入っていたからで、説明がつかないわけではない。
90年ごろ、いまだドラクエ以外に明確な代表作が見えないRPGというジャンル。そのちょうどいい受け皿として躍進したのがファイナルファンタジーだったのではないだろうか。

そのままFFはSFCへスムーズに移行し、いよいよドラクエの追い抜きを意識し始める。ナンバリングの数だけでは上回ろうとしたのだ。
スクウェアは91年にはFF4を投入し、SFCドラクエに先行した。

3から7までの出荷数は、こう。

タイトル 出荷数(万本)
FF3 140
FF4 140
FF5 240
FF6 250
FF7 410

大躍進したのは3だけではなく、5と7の二度に渡って異様な伸び方をしている。
※これも2022年のCESAゲーム白書の数値だが、7の本数が世間で伝わっているのより多すぎるようである。インターナショナルとゲームアーカイブス版がカウントされてる可能性が高い。
オリジナルのFF7は328万本らしいのだが、正確なソースはわからない。

FF5から見てさえ、FF1の出荷数は2割程度。
これは昔のFFは古いから忘れられているのではなく、普通に92年の時点で多くのファンが知らないゲーム、もう既にマイナーゲーの範疇だったのだ。そのくらい異常な伸び方をしている。
FFは実はシリーズ間で深刻な知名度の差を抱えており、これは現在も続いてると思われる…

4が3からあまり増えていないのは、SFCの普及率もあるだろうが、この時は逆に品薄だったという話もあるようだ。3の実績を見て流通量を控えめにしていた可能性はある。
だが5は…この増え方は何だ?

ジャンプと鳥嶋和彦ファイナルファンタジー

FF5躍進の理由を説明しているものとして、一説にはジャンプが扱い始めたからというのがある。
週刊少年ジャンプは、1992年No.33号(8月3日特大号)でFF5を掲載。
そしてVジャンプが増刊号として創刊された92年11月号では、3大RPGとしてドラクエ5FF5天外魔境カブキ伝を特集していたことがわかっている。このときFFはジャンプ公認でドラクエと並ぶ扱いだったのだ。
坂口博信もジャンプで扱われたことを感謝しているインタビューがある。

ただ…これ順序が逆だよな?
FFが既にドラクエに対抗できる人気RPGになってたのが先で、ようやくジャンプで扱われるようになった、というのが普通の読者の視点だと思うのだが。

FFはどのへんから2大RPGになったのかは、もっと古い判断材料がある。
ファミコン通信 1992年6月12日号坂口博信堀井雄二が対談している。実際いまだ売上でドラクエに及ばないFFであったが、既に雰囲気だけなら互角のような貫禄だ。

もう少し戻ってファミコン必勝本 1990年7月6日号、4大RPGとしてドラクエ4ウィザードリィ3、女神転生2、FF3をまとめていた。これは90年の代表的ファミコンRPGの話で、89年のヘラクレスの栄光2やウルティマ4が入ってないのは発売日の影響もあるだろうが。
FF3の存在感が既に十分大きくなっていたことは明らかだ。そして発売元が変わったディープダンジョン4は素で外されていた。

というわけでFFをドラクエと並ぶ2大RPGにしたのはジャンプではない。もう少しは前。
では、それはそれとしてFF5躍進の理由にジャンプの影響を無視することはできないのか。
これは丁寧に考えてみたい。

ここでキーマンになるのがドラゴンクエストの重要な仕掛け人であり、週刊少年ジャンプの編集者の鳥嶋和彦だ。
1990年ごろ、三条陸からFF3を勧められた鳥嶋和彦だったが不満が多く、坂口博信を呼び出して内容に徹底的なダメ出しをした。
だがこれでへこたれない坂口博信鳥嶋和彦と接点を持つようになり、これがFF4以降の内容に影響を与えた…というのが鳥嶋氏らの発言から表面化しているエピソードだ。

経緯はこの記事の後半に詳しい。(追記:2023年11月にJ-WAVE『TOKYO M.A.A.D SPIN』に三条陸が出演、FF3を強く押していたのは同時期にいた別の人であり、当時の三条さんはFFを高く評価しながらもあくまでドラクエ派であったとのこと)

だがもう少し調べてみると、別方向から情報が出てきた。
聖剣伝説2が『クロノ・トリガー』の原型であり、既に鳥嶋和彦鳥山明が関わっていたというのである。

1990年末ごろ、スクウェアはFF4をファミコンに、FF5SFCにと2本同時進行であることを発表していた。しかしファミコン版FF4は発売中止になり、SFCFF5はFF4に繰り下げられて現在のFF4になった、というのが当時公開されていた情報だ。
だが実は非公開だったもうひとつ、田中弘道が主導で開発していた第3のFF4が別に存在していた。これが後に『聖剣伝説2』に変更されたゲームなのである。

SFC向けにアクション性のある新しいRPGとして開発されていた『田中版FF4』だが、途中で鳥山明デザインの別のゲームに変更することが決まった。これが坂口博信鳥嶋和彦経由で持ってきた「マルトリ」(〇鳥)と呼ばれるプロジェクトだ。
この記事などで田中弘道が何度か言及している。

聖剣伝説』の終わった頃として91年前半ごろか、どうもSFCのFF4が発売する前くらいからマルトリが動いていたようだ。
つまり、鳥嶋和彦は90年頃に坂口博信に精神的な影響を与えただけではなく、既に具体的に仕事を始めていたのである。
のちにクロノトリガーに参加する堀井雄二も推定この90年頃、鳥嶋ルートで坂口博信と面識を持っていた。

「まだファミコンの『FF』を作ってた頃」としているが、FF3よりは後のはずなので、これがファミコンのFF4か、SFCのFF4の開発が始まるか始まらないかくらい、という意味だと取っておく。

そんなことをやってるうちに、業界内でも坂口の名が特別なものとして広まってきたんじゃないだろうか?
ドラクエと並ぶRPGの偉いやつが、堀井雄二とプライベートでも会ってるらしい、下手すると仕事もやってるらしい?
となれば、それはもうニュースであって、ファミ通堀井雄二坂口博信の対談も当たり前に成立したわけだ。
FFが名実ともに2大RPGとなり、そのリーダーの坂口博信堀井雄二と並ぶカリスマとなった背景には、坂口堀井を引き合わせた鳥嶋和彦の存在も大いに影響していた可能性は高い。

…もちろん、これは鳥嶋和彦個人が与えた影響の話だ。
ジャンプがFF5までろくに扱わなかったのは、それはどうしようもなく事実。編集部がFF4を門前払いしたという話は鳥嶋氏自身が言ってるし。

これの2ページ目で言ってる。言い方からすると、その後の事件のときは鳥嶋氏が居合わせなかったんかな。

鳥嶋氏としては、まだそれほど名の知られていなかったFF3の頃の坂口博信堀井雄二に匹敵する存在と見抜き、プロデュースした自覚があるのだろうが、そんなことは読者の知ったことではない。
遅れていくマルトリを発表できず、とっくに有名になっていたFF4もスルーし、完全にRPGのトレンドに出遅れたジャンプ、正直言って「後発で大してゲームに詳しくもないくせにスクウェアから情報もらってるやつら」という印象だったはずだ。
そして、実際詳しいのは鳥嶋氏ひとりくらいしかいなかった気配…

(ところで、鳥嶋氏の発言と坂口博信の距離感にちょっと違和感があったのだが、マルトリが91年には既に動いていたことを、お互いわかっていながら伏せているような…
スクエニ公式のインタビューで田中弘道が何度も喋ってるので、特にオフレコではないと思うのだが)

ジャンプパワーの限界

ジャンプの戦力についても把握しておきたい。この時期、ジャンプゲーだって100万売れるゲームばっかりじゃない。86年に神龍の謎が125万本売れたのも、結局のところこの86年に売れたキャラゲーたち、忍者ハットリくんゲゲゲの鬼太郎ドラえもんと、ジャンプに限らず何本もあったヒット作の一つに過ぎなかった。
神龍の謎の売上にジャンプ本誌のバックアップもある程度効いていたと言いたいところだが、実はジャンプと無関係なゲゲゲの鬼太郎とそれほど差はない。
そして87年以降、ファミコンで100万本売れたキャラゲーファミコンジャンプだけだ。『大魔王復活』以降のドラゴンボールもそこまで売れてないし、堀井雄二中村光一を呼んでちゃんと作られたファミコンジャンプ2もそこまで売れてない。
89年のファミコンジャンプだけは、まだジャンプの影響力がそれなりに強かったことを示しているのだが、その結果ジャンプのゲーム部門に対する不信感はますます強まったと思われる。
もちろんドラゴンクエストにしろ、既にジャンプの後ろ盾など必要としていなかった。

SFC時代でも、100万も売れたジャンプゲーは格ゲーブームに乗ったと思われる超武闘伝と超武闘伝2だけだ。
ジャンプの戦闘力は最大でも100万程度。もちろんその100万全員がFF4をやってないということもなく、ジャンプだけでFF5が100万も増えるわけがないのだ。
FF5の記事は評価が低かったと鳥嶋氏も言ってるし、アンケートを入れる層がゲームファンとズレていることもわかる。
当時600万部を越えていた少年ジャンプが扱うことで、FFの格みたいなもんが上がったかというと、そんな気は全くしない…ましてVジャンプの部数はもっと少ない。
ジャンプで扱うようになったこと、それなりの影響はあったこと自体は否定できないが、それは100万の一端に過ぎないだろう。FF5躍進の理由としては主要因ではないだろうと考える。
鳥嶋氏の存在自体は、もっと根源的な影響は与えているかもしれないけど。

FF5の客がどこから来たのか

ジャンプ主要因ではないとして、他の理由を考えておく。

  • 比較となるFF4の本数が少なすぎる

FF4も品薄で売り上げが伸びなかったという話があるようだ。3がダブついていたという背景から、逆に生産が絞られたというのも考えられる。
つまり潜在的にはFF4はもっと大きな需要があったのを、みすみす逃してしまったのではないか?FF4は中古市場で回っており、売上だけ見ると5で急に伸びたように見えるが、実際の需要は345と順調に伸びていったのでは?

またFF4はイージータイプを出したことで再販の本数が減ってるのかも。見かけ上の売上は伸びてないけど、実際はもう少し増えてるのかもしれない。

  • SFC普及率が上がった

これもFF4が伸びていない理由なのだが、単純にSFCの販売台数が伸びきっておらず、ましてRPGファンとなるとFCから移行してくるのに時間がかかった。
実際92年のドラクエ5FF5よりは多いが300万本を切っており、ドラクエブームのかげりというより、単にSFCの台数が足りなかったことも指摘できる。
そしてFF5はその少し後。ドラクエ5のためにSFCを調達したRPGファンも多いはずで、この層が少なからずFF5の購入層にシフトした。
これはそれっぽい仮説だな。

  • 年末だから売れた

FF3も4も年末を逃しているのだが、5はその点成功している。FF1からの必勝パターンであり、やはり発売時期は重要だったのでは。

  • 良いものだから売れた

これが危険な想像なのだが…
FF5はFF4と比べても、別格のゲームだった。完全に個人の好みの話になるところが危険なんだけど、……そうでしょう?
各種パラメータの効果を見直し、抜本的に作り替えられたバトルシステム。時間の流れを整理して一気に完成度を高めたATBジョブチェンジによる幅広い攻略法。卑怯な戦法が数多く用意されながらも崩壊しない独特のバランス感覚。
大容量からの圧倒的なグラフィックと強化された音楽。高度な演出で彩られる豪快なストーリー。
まあストーリーは勢いばっかりで、3周もやるとアラが目立つようになったりもするのだが。
総合的に見て、FF5は92年当時圧倒的なゲームだった。これは、そうだろうと言いたい。(何周もやれてしまうゲームだったのでアラが目立つ)
良いゲームなら売れるというナイーヴな考え、それが通用してもいいのではないか?

そんな感じで、ジャンプパワーは要因のひとつとしては弱く、ユーザーの評価、そしてスクウェアが相当売り方が上手かったんだろう、といったあやふやな説明しかできないのだが、多くの条件が重なってのFF5の躍進であろうと考える。

そしてもう一つ。この頃のファイナルファンタジーは、単独の出荷数では決してドラゴンクエストを超えることはなかったが、スクウェアブランドとなるとエニックスをとっくに超えていた。これはたぶん、当時の多くの人の実感だと思う。

SFCRPGブーム

SFCのミリオンも見てみようか…

発売日 タイトル 本数
1990/11/21 スーパーマリオワールド 355
1991/7/19 ファイナルファンタジーIV 140
1991/11/21 ゼルダの伝説 神々のトライフォース 116
1992/6/10 ストリートファイターII 290
1992/8/27 スーパーマリオカート 382
1992/9/27 ドラゴンクエストV 天空の花嫁 280
1992/12/6 ファイナルファンタジーV 240
1993/3/20 ドラゴンボールZ 超武闘伝 145
1993/7/10 ストリートファイターIIターボ 210
1993/7/14 スーパーマリオコレクション 212
1993/8/6 聖剣伝説2 150
1993/12/10 すーぱーぷよぷよ 170
1993/12/10 ロマンシング サ・ガ2 110
1993/12/17 ドラゴンボールZ 超武闘伝2 120
1993/12/18 ドラゴンクエストI・II 120
1994/4/2 ファイナルファンタジーVI 250
1994/6/25 スーパーストリートファイターII 129
1994/11/26 スーパードンキーコング 300
1995/1/20 ダービースタリオンIII 120
1995/3/11 クロノ・トリガー 200
1995/8/5 ヨッシーアイランド 177
1995/11/11 ロマンシング サ・ガ3 130
1995/11/21 スーパードンキーコング2 221
1995/12/9 ドラゴンクエストVI 幻の大地 320
1996/3/9 スーパーマリオRPG 147
1996/3/15 ダービースタリオン96 110
1996/3/21 星のカービィ スーパーデラックス 110
1996/11/23 スーパードンキーコング3 177
1996/12/6 ドラゴンクエストIII そして伝説へ… 140

太字がRPG。でもこれ…
RPGと判断される13タイトル中、ドラクエが4本でスクウェアが8本(マリオRPG含む)、1本だけゼルダだ。
これSFCではFFから派生したスクウェアRPGが特異的に売れていたのであって、その実態はドラクエ+スクウェアブームだった。やっぱり正しい意味でのRPGブームなんてないんじゃないの…?
エストポリスメタルマックスブレスオブファイア真・女神転生もテイルズもそれぞれ十分な支持は得ていたが、ミリオンに届くものは誰もいなかったのだ。
いやスクウェア内でもサガ聖剣とクロノだけだ。ライブアライブ半熟英雄ルドラの秘宝は残念ながらそこまでではない。
ミリオンに届くほどの支持があったのはRPGではなく、初期FFを立ち上げた4人のプランナー、坂口・河津・石井・田中の誰かが関わるチームだと、はっきり結果で出てしまっている。サガも聖剣伝説ファイナルファンタジーにとってはライバルであると同時に、同じ会社のイメージを盛り上げる仲間でもあった。
この会社としてのスクウェアの存在感も、ファイナルファンタジー躍進に無関係であったはずがない、と同時に世間のRPG需要はスクウェアエニックスだけで吸収する体制ができあがってしまっていた。FF5あたりではそうであろう。

またSFCRPGに向いていた、アクションに意外と向いてないという指摘もしばしばあるのだが、ドラクエ5より少し前に出たスト2のほうが売れていることにも注意したい。RPGが向いていたかはともかく、RPG特化で人気があったかは、なんかそうではない気がする。

もっとも、これは売れた本数ではなく出荷した本数の話でもある。当時の流通、問屋、そして初心会の話も明らかに強く関わってきている。
RPGブーム自体があったかどうかわからない中で、受注をスクウェアに集中する安易な戦術の話であり、それはロマサガ3の新品がいまだにちょくちょく出回るみたいな歪みとなって現れてきている。

95年ごろの流通関係に詳しい『売られた喧嘩、買ってます。任天堂勝利への青写真』という文献があるのだが、95~96ページに聖剣伝説3の話が出てくる。
当初100万本を予定していた聖剣3だが、初心会から来た受注は140万本だった。それを見たスクウェアは逆に生産本数を70万本に減らし、卸値は10%上げたというのである。
これは正確な情報かは不明だが…聖剣3が前作より本数を減らしているのは確かで、どうも当時の流通状況に対する違和感をスクウェア側も持っていたようではある。聖剣2が値崩れしていた過去とも関係がありそうだ。
そしてスクウェアの躍進は、ゲームの出来だけでなく、この流通の制御に秀でていたこともたぶん大きく関わってくるのだ。
しかしここは私の得意な分野ではないので、この記事ではこれ以上追及しない。

流通の話題については、研究しておられる初心カイ氏の記事を読んでもらったほうが良いだろう。

FF5から6はあまり伸びていない。このへんで一旦頭打ちだった感じがある。
しかしSFC末期固有の事情で、ソフトが高くなりすぎた。FF5(希望小売価格:9,800円+税)よりふた回りほど高い6(11400円+税)が同じくらい売れてるんだから、実質はかなり伸びているとも言えるのである。

ドラクエのライバルとしてのFF

ドラゴンクエストは、いつごろからファイナルファンタジーを意識し始めたのだろう?

伝わっている限り、ドラクエ側で最初に動いたのはすぎやまこういちだった。FF1か2の頃、スクウェアにいた植松伸夫のところに電話がかかってきて、FFの作曲をした人間を聞いてきたというのである。
以降、すぎやまこういちはFFが発売するたびに植松伸夫と連絡を取り合う仲となる。

※この話は『ゲーム・マエストロ』で植松伸夫が言っている。ただ、すぎやま先生がゲーム音楽コンサートに使うために連絡を取ってきた、という話になっている。
これは91年の”オーケストラによる”ゲーム音楽コンサートの話ではないかと思うのだが…わからん。あるいは89年の交響組曲ファイナルファンタジーあたりで既にすぎやま先生が関わってたのだろうか?
はっきりしないが、FF2の頃には既にすぎやまこういちの観測範囲に入っていた可能性自体は高い。すぎやま先生『半熟英雄』好きだったらしいし、FFもライバル視以前に素でやってたと考えるのが自然だ。

ドラクエの周辺の人物だと、90年には三条陸がFF3を絶賛し、これが鳥嶋和彦の耳に入ったのが前述のとおり。
そして堀井雄二坂口博信が実際に鳥嶋和彦の紹介で会う。堀井さんも3の頃にはFFをやっていた可能性が高い。堀井さんもFF4以降の内容は詳しく把握しており、はっきりライバルとして差をつけながらも意識し合ってやっていたことがわかる。
ドラゴンクエストもFFに倣ったとは言わないが、負けないように意識していたようだった。たぶん、坂口博信と会った90年以降はゲーム内容にも影響が出てきている。
それはストーリー性の部分もあるし、特にドラクエ6の転職システム、あれはドラクエなりにジョブチェンジに対する回答だと思える…
操作系も「はなす」と「しらべる」は一体化されたし、PS2時代になるとフィールドは主人公ひとり表示形式になって、バトルも自キャラが見える3D演出、FF3みたいに直接ダメージ表示もするようになった。ドラクエは後追いでFFに似てきたし、もはやそのこと自体は大した話題になることもなかった。ドラクエとしては新しい試みであると同時に、それはFFひとつに似たものではないからだ。

ドラクエ以外に対してもFFの影響は出てきていた。ファイナルファンタジードラクエと並ぶRPGの見本であり、キャラクターが見える戦闘画面、ストーリー中でしゃべる主人公、炎冷雷の三属性、飛空艇みたいな高性能の乗り物、そして青いウインドウ。
このようなFFっぽい要素は、もはやFFの影響だと感じることさえないくらい自然に広まっていた。

さすがに回復アイテムの名前がそのまんまなのは悪魔城くらいかな…

※実際こうしたFFっぽい要素はFFが初出というわけでもないので、似ていてもFF経由なのかどうか見定めにくい。
※特にFF3方式の「画面に数字が落ちるダメージ表示」がもたらした影響はものすごいと思うが、これも初出ではないようである。『熱血高校ドッジボール部』のほうが早いことは確かなのだが、RPGで最初に始めたのがどこかはわからない…

存在感のありすぎるライバル

ドラクエにもライバルがいたほうがよかったという話は鳥嶋和彦氏もしているのだが、このライバル理論で悟空とベジータであるFFとドラクエで違うのは、FFは身内側にサガを始めピッコロみたいなやつが何人もいたことだ。しかもこのピッコロたちはかつての仲間でありながら打倒ドラクエに全然協力的でなく、ときにはスタッフを取り合う敵対関係ですらあった。
FFはドラクエと戦う以前に、まず社内抗争に勝利して戦力を整える必要があり、強くなり続けなければ普通に負けてもおかしくない状況にいた。
ファイナルファンタジー5は、そのような環境の中でロマサガ2と聖剣2を相手に人を取り合って作られたものだった。このときFF5が引き込んで主力に置いたメンバーにはFF4からついてきた者だけでなく、デビュー作『聖剣伝説』でいきなり頭角を現した北瀬佳範と、ファミコンを持っていなかったが絵がうまかった謎の新人の野村哲也もいた。
既に会社のエリート部隊と見なされていたFFチームだが、見込みのある新人をいきなりメインに引き込む87年の体制も維持していたのである。

ドラクエはピッコロのことをどう思ってたんだろう。実際FF5の売上はドラクエ5に及ばないのだが、既に同じ92年のロマサガ1(ぎりぎり100万いってないらしい)を足せばあっさり超えてしまうくらいの差まで縮まっていた。
まだ単体ではドラクエのほうが強かったが、既に会社の戦闘力ではスクウェアのほうが勝っていたようだ。

また90年代のドラゴンクエストというと、発売が遅いというイメージがあったが、これもよく見るとそうとも言い切れなくて、ドラクエ4から5までは2年ちょっと開いているが、5から6までの3年の間にはI・IIを挟んでいるし、堀井さんもいただきストリートファミコンジャンプ2クロノトリガードラクエ以外の仕事も抱えていた。
6年くらいしかなかったSFC全盛期の期間に、ナンバリングを2本も増やして、リメイクも2本やってるドラゴンクエストは十分速い。
どう考えてもFFを4年ほどで3つも出して、ロマサガも聖剣もクロノもライブアライブも出してまだ余裕のあるスクウェアがおかしいのである。1年ちょっとの開発期間でFF5みたいなのを出されちゃたまらん。
こんなのをライバルとして戦う状況に追い込まれたのは、かなりのプレッシャーだったはずだ。堀井雄二はともかく、エニックスにしてみればいきなり悟飯が割り込んできたフリーザ第3形態のような心境ではなかったか。

次世代機へ移行

95年、いよいよ発売されたクロノトリガーでも販売本数でFF6を上回ることはなかった。カセットの値段もあって、スーパーファミコンの終わりが始まっていた頃だとは言える。

96年2月、FF7プレイステーションで発売することが発表された。
そこから数ヵ月はまだ『スーパーマリオRPG』を含めて精力的にSFCソフトを出していたスクウェアだが、5月のトレジャーハンターGを最後に任天堂ハードを去る。8月のトバルNo.1プレイステーションに参入。
いよいよ次世代機への移行が始まった。

FF7の正確な販売本数はともかく、このときも6から相当増えたことは確かである。
その理由として、たぶんソフトの値段も大きいのだが(6の値段を考えるとそれほど伸びてないという理論も成り立つ)、他にもプレステの性能であったり、プレステが普及してきた後の発売タイミングであったり、広報が上手かったり、プレステの流通の成功であったり、まあいろいろだ。
乱暴な言い方で申し訳ないのだが、売れて当たり前みたいな雰囲気だったのは確かで、FF7が売れた理由は深く掘り下げなくてよかろう、という立場である。
よくわからないとも言う。

どっちかと言うとグラフィックとか演出とか、一般的な部分にFF7の売れた理由を求める言説にはどうにも違和感があり、私はあまり受け入れていない。
そりゃ絵に関しては当時の3D格ゲーや、スクウェア自身の極まったドット絵に比べて、負けてはいないとは思うけど。逆にマップの見づらさは当時から現在までずっと有名だし。
または演出やドラマ性に売れた理由を求める論もあるが、あの入り組んだストーリーちゃんと理解されてんのかという疑問もあり、どうも、FF7の売れ方はそんなに簡単じゃないのか?などと思ったりはする。
売れて当たり前の状況に持っていくまでに山ほど理由があったはずで、「出来が良かった」というふうに簡単に理由を狭めてしまうべきか。出来も要因のひとつではあるのだろうが。
FF5と同じで、いくつも理由はあるんだろうが、それは「グラフィックがすごかった」「シナリオが新しかった」とかの簡単な話ではないのだということを考えた。

坂口博信は去る

ところでFF7の開発期間、どのくらいだろうか。
FF6から7までの期間は3年も開いているのだが、この間ずっと開発していたわけではなく、プレステの参入も決まっていなかったのだ。
94年のFF6が終わった後、坂口チームは開発が長引いていたクロノトリガーに合流していた。この時期FFは誰も作っていなかったと思われる。
その後、95年にはおそらくNINTENDO64を想定してFF6の3Dデモを作っていた。これが技術的にはFF7につながるのだと思うが、FF7の開発期間に含めていいのかどうか。

FF7として動き出した時期を絞り込む重要な情報として、シナリオの野島一成の参加がある。野島氏はデータイーストで『ヘラクレスの栄光』『神宮寺三郎』という2大シリーズに参加した人物で、スクウェア入社後は『バハムートラグーン』に参加。
バハラグの発売日は96年2月だ。時期から考えて、バハラグ終了後すぐ鳥山求らと共にFF7に参加していると思われる。だからFF7チーム結成から、2月に発表されるまでの期間、どうもそんなに長くは取ってない…
FF7発売日の97年1月までに確保できる開発期間は、またしても1年ちょっと。3Dデモを作っていた期間まで含めれば2年くらいだろうか。
ゲームの規模が巨大化したことで、開発期間は伸びていった、などと一般的な論が通用するほどの時間がかかっていない気がする。人数は増えて、開発コストは上がってるとは思うが。

FF7発売から約8か月後の97年10月、FF7インターナショナルが発売。だが本当に恐ろしいのはここからだった。
99年2月にはFF8が発売。インターナショナルの期間を考慮して、実質の開発期間は2年に満たないくらいだろう。

翌年2000年7月にはFF9発売。前作からのブランクは1年半。FF9は8とは別チームだが、8の主力の伊藤裕之がディレクターになっているのと、青木和彦が『チョコボの不思議なダンジョン2』終了後に参加していることから、実際に開発スタートしているのはFF8後くらい。人集めなどで準備期間は取っていたかもしれないが、メインの開発期間は見た目通り1年半程度だろう。

そしてぴったり1年後の2001年7月にFF10発売。
この速度は10と9で別チームで並行して開発していたためだが、PS2の時代が来てさえも、FFの発売ペースは全然落ちていなかった。
そしてFF11の正規サービス開始が2002年5月。ここに来て前作から10ヶ月というFF最速記録を更新した。(のちにFF13→旧14で9ヶ月を達成する)

このような11までの高速開発体制をだいたい作り上げた坂口博信だが、FF10の発売を前に2001年にスクウェアを去る。

スクウェアが坂口博信副社長の辞任を発表!!

ここに来てスクウェア赤字転落。ただし武市会長と違い、坂口博信は引責とはしていないらしい。正確な辞任理由は、調べてもよくわかんなかった。
後年のインタビューで映画の失敗をそれほど気にしてないことは、どうもそのようなのだが。
このとき坂口博信はまだ38歳だった。

FFの発売ペースだけでも相当なのだが、坂口博信はずっとゲーム開発のトップであって、ライバルのサガや聖剣やゼノギアスやらも見ている立場でもあった。
そしてどんどんデカくなっていくスクウェアの副社長でもあり、スクウェアUSAの社長でもあり、FFの間に『パラサイト・イヴ』2作品もやっており、そして映画『ファイナルファンタジー』の監督ということにもなっていた。
メディアでの登場機会もどんどん増えていった。会社としても、坂口博信ひとりをカリスマ化しようとプロデュースしていた印象がある。(河津・田中・石井らはこの2001年ごろまでは坂口博信ほどメディアに出ておらず、知名度はかなり下だったと思う。インタビュー回数を数えたわけじゃないが)

退社後だけど、プレイオンラインのCMにも出てた。

有名人に中身のないことを言わせるだけの、そこそこ意味不明なCMだ。梨本勝椎名へきると同等の識者として登場する坂口博信。当時のスクウェアは一体どんな気持ちでこれをFFアンリミテッドの視聴者に見せようと思ってたのか。

プレステ時代のFFの実制作にどこまで関わってたか、映画の監督と言ってもどこまで担当してたのかなど、坂口博信の関与した領域は相変わらず不明点が多いのだが…
これたぶん、仕事し過ぎてたよね…

この講演などで坂口博信は言ってる。専属プロデューサーとして名を残していたが、実際は3年くらい何もしてなかったんだと。

坂口博信がいなくなったのと同じタイミングで、けっこうヤバいところまで行ってたスクウェアだが、和田洋一社長の新体制で復活に成功。
任天堂とも和解。エニックスとの合併も成功し、また旧FF14で大ピンチになったりするのは別の話として、FF7の世界的成功でグローバルブランドとなったファイナルファンタジーはかつてない力を得ていた。ついでにスクエニになったドラクエも遅れて海外展開に成功するようになっていた。
過去のドラクエの海外展開の失敗は何だったのか…これはこれで気になるが、今回は別にいい。

結局国内でのRPGブームというものが本当にあったのかよくわからないまま、FFはバカでかいものになっていた。
FF以外の国産RPGも海外で多数ヒットしていた。2000年ごろにスクウェアを離脱したスタッフも、任天堂など各社と協力してRPGを作ったりしていた。そして今や元スクウェアの人間が任天堂から出すRPGスクエニ現役社員も参加するほどズブズブの状態。

なぜファイナルファンタジーがここまで支持を集めたのか。なぜいまだに過去のFFに心を縛られている人が多いのか。
ようやくファミコンRPG史が見える気がしてきたところで、上手いまとめ方が思いつかなかったのでこの記事は終わる。
RPGブームが本当にあったのか、それに疑問を投げかけるためにファイナルファンタジーに着目して1983年まで戻って書いてきたが、この記事でこれ以上進むことはない。おわり。

憶測の多い補足

ファミコンジャンプの発売は89年2月。ファミコンRPGも後半。そもそもRPGじゃねーだろというのはともかく、大きな疑問がある。ドラクエ3の一年も後のゲームなのに、なんでセーブがないんだ?
さすがにバッテリーバックアップもそんなに珍しくなかったと思うが…

もうひとつ気づいたのが88年10月発売のディスクシステムの『ウルトラマン倶楽部』だ。割と珍しいディスクシステムRPGなんだけど、なんでこんな遅い時期に出たのかということを考えた。
…セーブ機能?

そういえば88年バンダイにはアクションRPGの極北仮面ライダー倶楽部』がある。セーブどころかパスワードもない特異点として有名な一本だが、パスワード方式くらいは技術的に使えそうなのに、なぜないのだ。
いやあれはセーブがなくなったとかじゃなく、クリアさせる気が本当にないだけかもしれないけど。

バッテリーバックアップは88年には珍しくない、と思っていたのだが、この時期のバンダイのソフトを確認したところ、90年までバンダイ製のカセットにセーブ機能が存在しないようだ。見逃しはないと思う。90年の『悪魔くん』のようなRPGでもパスワードなんだと。
90年8月の『ナイトガンダム物語』、10月の『強襲サイヤ人』など一部のバンダイ製ソフトがフラッシュメモリによるセーブなのは知られているが、もしかしてバンダイには逆にバッテリーバックアップを製造できない事情があったのか。
89年の『カプセル戦記』はバッテリーバックアップだが、あれは発売がバンダイではなく新正工業で、カセットもバンダイ製ではなく任天堂の通常型だ。もしかしたら、セーブが理由でバンダイ以外から発売した例もあるのかも。
ファミコンジャンプもあるいはセーブ機能前提で作れていれば、もっとゲームの内容も変わっていたかも…

91年のファミコンジャンプ2などはバッテリーバックアップのようだ。

『交響組曲ファイナルファンタジー』は89年5月に行われたコンサートと伝えられており、編曲は服部克久服部隆之なのだが…
このコンサートがどのくらい宣伝されたのか、広告のひとつも見たことがなく、現地で見たという証言も聞いたことがなく、服部克久親子の起用された経緯もわからない。
CDは存在するし録音時期も会場もわかっているが、今となってはまるで詳細不明のコンサートなのである…
少なくとも私にはわからん。

服部克久すぎやまこういちには明確に接点がある知人で、タイトルも明らかにドラクエに合わせてるし、どうも無関係ではない気がしてるのだが…

90年中盤、ファミコン版のFF4はどのくらい制作が進んでいたのかは不明だが、虚無ではないと考えられる。

20thシナリオアルティマニアのインタビューでファミコン版について時田貴司が言及しており、自身は最初からSFC版のチームだったとしている。
ということはファミコン版のチームも実在しており、一時的にもSFC版チームと共存していた可能性はかなり高い。

近年出てくる情報では逆にわかりにくいのだが、このファミコン版FF4の経緯は噂ではなく、当時の雑誌に詳しく書かれたものだった。
雑誌記事の重要な部分は『ファミコン発売中止ゲーム図鑑』(2021年)にも引用されている。FF4は発表された直後に、もう既に5のほうを先に発売する方針が公開されており、そして4のスタッフは全員5に合流したのだという。
また当時の雑誌に載った画面写真はファミ通による想像図であり、このファミコン版FF4とは関係ない。

より詳しくは、こちらに経緯をまとめている記事があるので紹介させていただきます。

こちらに書いてある通りファミ通の想像図はFF4と5が発表されるより前に描かれたものであり、正確な経緯を調べるうえでは完全なノイズなのだ。裏ではファミ通がFF4の開発情報をつかんでいた可能性も否定できないが…
そしてファミコン版FF4は5の発表に付随して公開されたものということであり、正式な制作発表はそもそもされていなかった。
それにしても気になるのは寺田憲史が参加予定だったという情報か…

5が発表された90年11月の時点で4の開発はとっくに止まっていたと思うのだが、結局発売中止になったことが91年に公表されるまでに少しラグがあった。
もしかしたら、その頃に動いていたのが『田中版FF4』だ。一度も制作が発表されたことがないが、これが石井浩一の参加した時点でまだファイナルファンタジー4だったことは開発資料を見た小山田将の証言から確認されている。
田中FF4も当時のFF5(現FF4)と並行か、後からスタートした企画だろう。しばらくそのままのタイトルだったことを考えると、欠番が決まりつつあった4を後から埋めようという意思もあったかもしれない。不明点も多いので、断定はできないが。
しかしこのゲームも結局FF4になることはなく、スーパーファミコンCD(ソニー)の『マルトリ』になり、それも別チームにまわされて『聖剣伝説2』へと変わっていく。
FF5は4に下げることで欠番は回避された。

『田中FF4』『マルトリ』『聖剣伝説2』の変遷について、先に紹介した記事以外にも幾つか言及している。

どうやらキャラクターの大きさで坂口博信と意見が対立したらしい。現FF4の対抗案だったようにも見えるが、この頃は向こうはまだFF5だったはずで…よくわからん。
他のインタビューを総合するに、マルトリになる前は田中弘道が単独で構想していた段階であって、チームとして存在していたわけではない?

『FF』もう一人のキーマン田中弘道氏(中)ナンバリング同時展開で『ドラクエ』を抜きたい。

『マルトリ』はスーパーファミコンCD(プレイステーション)のローンチとして企画されていた。言い方からするとマルトリ前はCDではなかったのかな。
これがスーファミCDが怪しくなってきたことでマルトリは別プロジェクトとして分離。これが後の『クロノ・トリガー』になる。

他に参考文献

ファミ通 2018年3月1日号の田中・石井と小山田将の3人のインタビュー。田中氏は「「FF」チームとは別に作ることになった」「そんな矢先、鳥嶋さんと~」と述べており、やはり現FF4から分かれてきたような言い方に取れる。マルトリになる前には田中FF4は案が固まっていただけで、チームとしては存在してなかった感じがする。
そして石井浩一鳥山明が関わるゲームと聞いたから参加を決めたようだ。

この本のインタビューでも、聖剣2の開発経緯について言及。マルトリと分離し聖剣伝説2に変わった瞬間に石井ワールドに変化したんだという。そこからゲームシステムも聖剣伝説寄りに調整されていったようだ。

上記で貼った記事をもう一回貼るが、SFCプレイステーションは単に容量が増えるだけくらいの想定だったようだ。開発機材や正式な仕様がスクウェアに渡っていたかは知らないが…

亀岡慎一のインタビューでも言及してる。FF4完成直後、亀岡氏の参加時点でまだマルトリだったのか、このインタビューだと厳密に確認できないが。

ドラゴンボール側の都合という見解については、田中弘道は以前に否定的なツイートをしてた。ドラゴンボール完結は95年だし。
ただ91年だとするとドラクエ5の制作と重なってる時期ではある。鳥山先生の都合と無関係とも言い切れない感じはあり。

まとめると…

スタートはサガ2完成後の90年後半ごろ?
『田中FF4』のシステムはそれなりに案ができていたが、画面構成の方向性の違いなどが理由でFFから離れることになった。
ちょうどそこに鳥山明が参加するプロジェクト(マルトリ)が来たので、それに使うことになった。
ちょうど聖剣1の終わった石井浩一が参加して、ちょうど来たスーファミCDでやることになった。仮タイトルはまだFF4だった。
その後の開発は進んだがスーファミCDの雲行きが怪しくなったため、マルトリから切り離されて聖剣伝説2になった。
こんな感じのはず…

確かなのは、聖剣伝説2』は『聖剣伝説』が発売するより前から考え始めていた直接関係のないプロジェクトで、生みの親の石井浩一のほうが後から参加して、聖剣伝説になったのはさらに後なのである。
これはわかりにくい。

  • マルトリのその後

マルトリが『クロノ・トリガー』のタイトルになったのは聖剣伝説から分離した後らしい。引き継いだプロデューサーは青木和彦なのだが、青木氏も92年後半まで『半熟英雄』をやっている。
推定1年くらいマルトリに関われたプロデューサーがいない感じなのだが、どうなってたんだろう…
別のメインスタッフの加藤正人も前作『プリンセスメーカー2』が93年の発売であることから、スクウェア入社は93年と思われる。

田中マルトリ時代に、鳥山明石井浩一のドットを見せたのは確からしいが、デザインがどこまでできていたのかは不明。
ひとつ指摘があるのは、ランディ&プリム(亀岡慎一デザイン)とクロノ&マールの二組のデザインで、バンダナ等のパーツ構成に類似が見られることだ。
これはもしかして鳥山デザインが意識にあった状態でランディとプリムをデザインしたため?
それとも、鳥山先生のデザインが石井氏の原型に基づいていて、聖剣2は同じものからデザインされている?

とか理由を考えたが、ただ偶然近いパーツがあるだけとも取れるので深く考えるのはやめた。現状憶測を越えるものでなく、あまり有力な説ではないと判断。
ちなみにポポイは背景の高橋徹也のデザインとのこと。

『ゲーム・マエストロ』のインタビューによるとスクウェア受けた当時の野村哲也ファミコン持ってなかったらしい。FFが天野喜孝の絵であることと、実際のゲーム画面ではSDキャラであることは知っていたくらいの知識だったようだ。

この記事によると、おもちゃ屋でFF1を売っていた側でもあったらしい。
先輩たちにはスクウェアを知らなかった人や、ゲームそのものをやってなかった人もいるから、それよりはだいぶ詳しい感じだな…

野村さんがFF5時代に新人の身でありながら多くのモンスター(全部ではない。半分くらいか?)のデザインとドットを手掛け、ラスボスのドットまでやった偉人であることはさすがにご存じであろうが。
だがFF6ではモンスターだけじゃなくキャラクターの絵を描いてたのは、いまだにちゃんと知られてない…

25thアルティマニアには5と6の野村哲也の絵もかなり載っている。
FF6のキャラクタードットは渋谷さんのようなのだが、説明書などにみられるFF6メインキャラのSD絵については、全て野村哲也の作だ。野村作の白黒画が本書に多数掲載されている。(色塗りは違う人なのだろう)
また当時出ていたFF6のカードダスだが、その原画のうち10数点ほどがやはり野村作として掲載されている。
この当時、野村哲也の名はほとんど出てくることなく、Vジャンプに掲載されていた矢野りん子の絵と混同されていることが現在でもかなり多いようだ。むしろ矢野りん子さんのほうが意識して野村絵にあわせた画風にしていた可能性が高いのだが、記名されていたこちらの名前だけが残ってしまったのだろう…
カードダスの絵については一部は野村作で確認が取れている。そして画風が同じ他の絵も普通に考えて全部野村作だと思うのだが、…仕上げは別の人かもしれないし、似た画風の別の人の絵も混ざってるとしたら、見分ける方法はないな。

ダリルのデザインも野村哲也のようだ(このラフも掲載されている)。
またモグに着目すると、従来と違う糸目にしたのは天野喜孝だが、SD絵だと従来と同じ丸い目になっている。モグはSD絵→天野→ドットという順で描かれている可能性が高いのだ。
もしかしたら天野絵がある中にも、モグと同じく野村デザインが先にあるキャラクターがいるのか…?

憶測が特に多く入るのだが、思い出してしまったことがある。当時のスクウェアRPGの報道の過熱の件だ。
ファミリーコンピュータマガジン 1994年4月1日号No.7。発売直前のFF6のモンスターのデータが124体も掲載されたということがあった。
たぶんこの号だと思うのだが、FF6の最強の敵であるブラキオレイドスを発売前に見ていた記憶がある。当然、ファミマガの独自調査ではなく、スクウェアがデータを提供していたはずだ。アルテマを使うことまで知っていた。

95年のクロノトリガーの記事もかなり加熱していた。ラスボスの名前が出てくるし第1形態くらいなら写真も載ってたし、発売前後どのくらいだったかは忘れたが、エンディングも一部紹介されていた。

異様な盛り上がりの原因をたどると、思い当たったのがまたもジャンプだ。かつてドラクエの攻略データを堀井雄二から直送で掲載していた週刊少年ジャンプだが、FF4あたりではもうゲームの流れについていけてなかったのは書いた通り。
そのジャンプが、身内のドラクエならまだしも、スクウェアの情報を独占してる体制、本業のゲーム誌にしてみれば面白くはなかっただろうと。
クロノトリガーなんか攻略本を集英社が独占してたし。

だからゲーム誌は攻略情報に力を入れたのでは。ジャンプに情報を独占させまいという意思はスクウェアの広報側にもあったから、ゲーム誌には別の独占情報をもたらした。それでこのような過熱が起きた、ひいてはスクウェアブームにもつながったのではないか。

とか考えたのだが、憶測が過ぎるな…

  • 真のRPGブーム

私は結局ファミコンRPGブームは「なかった」だと想定している。
だがSFCRPGスクウェアだけで合計してもかなりの本数であって、まあやっぱりRPGブームと言えなくもないのか?
PS以降ならどうなんだ?FF7の頃はRPG自体は流行ってたのか?初期のプレステやサターンにもRPGはあったが、あれはFFやクロノと比べるのは無茶として、SFC末期の標準RPGと比れば意外といい勝負をしてたんじゃないのだろうか。
ブームとは終わるからブームではないのか?

FF7躍進の理由については、この記事では雑な予想だけして投げだすことにしたが、ひとつ言及しておくのは96年のポケットモンスターの話だ。結局どんだけ売れたのかわかんないんだけど、CESAゲーム白書によると赤緑青ピカチュウ金銀クリスタルの7作の合計が国内だけで2300万本なんだそうだ。
1本あたりがどんだけかわからんが…赤緑が800万本とか言われてるのは、たぶんそんなもんだろう。

確かなのは、ポケモンからゲームに入った人、ポケモンRPGを知った層というのが、これまでと違う規模で発生しているはずである。88年のドラクエ3に匹敵するか、それ以上の衝撃で。

つまり…このポケモン層の受け入れ先として、翌年のFF7も結構有力だったのではないかという説が発生する。
いや、そんな説聞いたことない。
ポケモンと同じコロコロとかにFF7が載ってることはよくあったはず。ハードは違うから購買層のズレはあるが…プレステ持ってるポケモンユーザーも100万人くらいは普通にいただろう。
しかしやっぱり客層の違いは感じるので個人的にも有力な説ということはない。ないのだが、思いついたのでとりあえず仮説としては書いておく。
ポケモン以降にRPGユーザーそのものが増えたということは、さすがにそれはあるだろうし。

ただポケモンは存在が巨大すぎてRPGとして見られてないというのもあって、影響が見えにくい…
私が個人的に思い入れが薄いという問題もある。

ポケモンの開発の発端に魔界塔士SaGaがあったことは先日消えた任天堂オンラインマガジン2000年7月号にある。
ポケモンにきっかけを与えたのはサガだったこと、ごま塩程度に覚えておきたい事実だ。

補足だけでやたら長くなったが、4回にわたって書いてきたFFの歴史シリーズ、今回でいきなり完結とする。
が、まだ外伝を用意しており、もうちっとだけ続く。今度はそんなに遠くないうちに書き上げたい…