神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

『ファイナルファンタジーへの道』はどんなものだったか

ここまでの記事

ここまで、FF1の発売付近のファミコンRPGの状況を振り返ってきた。
87年、ドラクエ3を前にFF1がどのようなゲームとして受け入れられたかは見えてきたと思う。

今回はユーザーに見えていない部分、FF1はどのように開発されたのかを追う。

人集め

少し前に戻る。坂口博信が大学で田中弘道と共にApple IIのゲームにハマったというのは、1984年か、それより前だろうか?
彼らが好んでいたゲームの中には例によって『Wizardry』と『Ultima』があった。今考えてみれば、これは堀井雄二が83年10月ごろにWizardryを買ったのと同時期か、こちらのほうが早かったくらいかもしれない。(坂口博信RPG特化でハマったわけではないらしい)
彼らは1984年の春休みにスクウェアに参加、坂口博信スクウェア開発チームのトップとして手腕を発揮していった。

スクウェアファミコンに参入したのは1985年。86年には電友社のゲーム部門から、株式会社スクウェアとして独立した会社になる。
そのころファミコンではRPGを作れないと思っていた坂口博信は、『キングスナイト』を世に送り出すが、その発売前に登場したドラゴンクエストの完成度にショックを受ける。そしてRPGの企画を動かし始めたのだが、なかなか開発はスタートしなかったようだ。

キングスナイトの後、86年後半(10月ごろ?)、宮本社長が海外で知り合ったプログラマーナーシャ・ジベリがやってきた。既にAppleIIプログラマーとして名を知られていた人物。
訂正:8月までのタイミングと思われる。POPCOM 1986年9月号にスクウェアに来たナシール・ジェベリのインタビューが掲載されている。
田中弘道のFF3のインタビューの情報から、宮本社長と知り合ったのはSummer CES 1986か)
ナーシャの技術がいかんなく発揮された3D作品『とびだせ大作戦』『ハイウェイスター』の2作も坂口博信の担当作だ。
ただし、これらの制作はナーシャが主導だった様子がある。そして傍から見ていた時田貴司(86年入社)によると、坂口さんはセガのパク……そっくりなゲームを会社に作らされていたという印象になるらしいが…
坂口博信自身も、キングスナイトからのファミコンの3作品はあまり満足の行くものではなかったようだ(ただし売上についてはハイウェイスターは北米版『Rad Racer』がものすごく売れており、続編も作られている)

ここからが関係者の話に少し食い違いがあるのだが、会社の指示でのチーム分けがどこかのタイミングで起きた。
既にドラゴンクエストを見ていた坂口博信は、このチーム分け時にRPGの企画を立ち上げようとするも、このときスタッフの多くは田中弘道のチームに取られた。RPGを作ろうとプレゼンを行った坂口博信のもとには4人ほどのメンバーしか集まらなかった。

坂口博信率いるAチームについてきたのは、RPGをわかってないナーシャ・ジベリ
見かねて参加したグラフィック担当の渋谷員子。他にもプログラマーがいたようではある(ナーシャより前にいたプログラマーが辞めているらしいとか)。

これではまずいと思った坂口博信は新人の加入を行った。それで追加された二人のバイトが、かわいい絵を描く石井浩一と、RPGの知識に長けた河津秋敏だった。このあたりの経緯までは、坂口博信のインタビューでもだいたい判明している。ただ、これで終わりではない。
Bチームを率いていたはずの田中弘道が合流した話や、他のスタッフ、それぞれの担当範囲については、坂口インタビューだけでは明らかでない部分が多い。

膨大な量の参考資料

参考資料から紹介していく。ネットで読めるインタビューが主。特にFFの35周年やFF11の20周年などで、近年新たに判明した情報も数多い。

坂口博信のインタビューは多いが、FF1のあたりに触れているのはこのへん。

入社初期のエピソードから、FF1の立ち上げにあたりドラクエへの対抗は意識していたことなど。
そして『ファイナルファンタジー』というタイトルをつけた経緯。

"運命のようなもの"が働いていた?……坂口博信が自作ゲームからFINAL FANTASYに辿り着くまで:ゲームアツマール:ゲームアツマールch(ゲームアツマール)
(6月28日、ゲームアツマールと共に消滅したのでアーカイブをリンク)

チーム分けの際にプレゼンに失敗したこと。初期メンバーはナーシャ・渋谷で、石井浩一河津秋敏を後から加えたことなどがわかる。また営業担当の取締役氏(寺田憲史の著書にも出てくる斎藤氏と思われる)に腹をくくらせた話も。
だが、これは開発初期の話であり、FF1のスタッフがこれで全部ではないことに注意したい。開発が実際に始まってからの部分は、坂口博信はあまり語ってきていないように思う。
これは自身が担当した範囲についてもである。もっといろいろやってるはずなのだが。

この講演では、田中弘道と共にプログラムの指示を出していたことは述べている。
また石井、河津を面接で採用した件についても。

こっちの講演ではチーム分け時の田中チームの作品が『エイリアン2』だったことがわかる。
また石井氏はチーム分け後に募集したのではなく、初期メンバーということになっている。

FFチームで植松伸夫とやりとりしていたのは坂口博信だったことがこのインタビューなどからわかる。ただし、この記事では植松氏が来たのは『ザ・デストラップ』の頃としているが、実際は『ブラスティー』を開発していた頃のようだ。

植松伸夫の正確な入社経緯はこちら。初仕事のブラスティーでは付属のソノシートの部分しか担当していないんだと。

田中弘道石井浩一のインタビュー。FF3のインタビューなのだが、FF1でのそれぞれの担当範囲が深く言及されている。
企画は当初石井氏がひとりでやっていたことと、田中氏がFF1のゲームデザインをかなり受け持っていたことがわかる。

こちらも石井氏がFF1の企画を一人で練っていた頃のエピソード。

石井氏がゲーム業界に入るまでの話はこっち。

FF1の戦闘シーンの背景など、石井氏が無茶なアイデアを通してもらったことはこちらのインタビューで言っている。また召喚魔法は1の頃から構想していた。

『FF』もう一人のキーマン 田中弘道氏(上)ハンダゴテを持った少年が坂口氏と出会うまで | 【es】エンタメステーション

『FF』もう一人のキーマン田中弘道氏(中)ナンバリング同時展開で『ドラクエ』を抜きたい。 | 【es】エンタメステーション

『FF』もう一人のキーマン田中弘道氏(下)スクエニ合併から退社。そしてガンホーへ。 | 【es】エンタメステーション

田中弘道のロングインタビュー。残念ながらサイトごと消えてしまっており、アーカイブから発掘。(中)がFF1のあたりで、『スクウェアのトム・ソーヤ』のチーム編成後にFF1に引っ張られた話や、ナーシャ・ジベリの経緯など。SST(Super Software Team)という団体で海外にいったときの写真の日付は86年10月3日となっているが、これがFF3のインタビューに出てくるナーシャを見つけたときなのか、ちょっとわからず。
追記:ナーシャの参加は9月以前で、こっちは違うらしい。
(下)はFF1の話は少ないが、データを詰め込む田中氏のゲーム制作ポリシーが伺える話がある。FF11のサイトにあまり関係がない河津秋敏のインタビュー。パート1が入社前からロマサガ2あたりまでのエピソード。河津氏のゲーム制作の手本は田中さん。
田中氏の担当していた仕様書の話のほか、プログラマー吉井清史、安達景太郎の参加を言及。吉井氏がバトルプログラマーらしい。

こちらでは河津氏が参加したFF1の開発初期の様子を語っている。石井氏と二人で初期の方向性がすぐできたこと、ドラクエを研究して意識していたことや山が白くなった経緯に宮本雅史社長が関わっていることなどを話している。
こちらでもFFのタイトルの経緯を語っている。

河津氏のゲーム歴について、『ポン』をやっていたことやカセットビジョンを持っていなかった話など。

https://web.archive.org/web/20130921061202/http://www.1up.com/features/deal-square-enix-akitoshi-kawazu

こちらは1UP.comに過去に掲載された河津氏の英語インタビューのアーカイブ。日本ではあまり語ってきていないD&DとWizardryの影響を明確に述べている。

『FFポータルアプリ』1周年記念動画。8時間もあるがゲストがすごい。
時田貴司(1時間59分のあたりから)と河津秋敏渋谷員子(4時間56分)。時田氏は『スクウェアのトム・ソーヤ』とFF1に参加した当時のグラフィックチームの動向を語っている。
河津・渋谷は田中弘道のデータ作りのすごさに言及。FF1については開発期間は半年なかったくらいとの言及(5時間4分あたり)。
このほか、橋本真司(4時間26分)、小山田将(6時間2分)がゲストに来ているがFF1は関係なし。

こっちはFF1についての言及は少ないが、サガ1部分のゲストに時田氏、サガ2部分のゲストに田中氏。彼らと河津氏との関係性が見える。『中山美穂のトキメキハイスクール』で河津時田が初めて本格的に組んだという話をしている。

時田貴司から見た当時の坂口作品は、スペハリやアウトランのパク……そっくりなゲームを会社に作らされていたという感想。

時田氏がFF1の頃の思い出を語っている。ナーシャが15パズルを勝手に入れた件も見ていたようだ。
FF1の開発は当初から大人数だったと、坂口博信の思い出と逆の話を言っているが、これは実際結構早い時点でスタッフが増えていったんだろうと思う。

渋谷員子天野喜孝のインタビュー動画。渋谷さんの入社当初の話や、グラフィックチームの様子、FF1で天野喜孝の担当だった話をしている。

チーム編成に失敗した坂口博信渋谷員子がついていった経緯、ここくらいでしか見たことない。入社一年くらいということは、87年前半くらい…?
OPの1枚絵については、渋谷氏は容量が理由で抵抗した側のようだ。もともとゲームのことをあまり知らなかった渋谷氏だが、グラフィックを切り詰める考え方は87年当時既によくわかってた様子。

こっちは渋谷氏が社内でドラクエ1を見た思い出。
カニ歩きが強烈だったようで、渋谷氏が見たのはドラクエ2ではなかったことがわかる。
不思議なのだが、渋谷氏に限らずFF1スタッフはドラクエ2にあまり言及していない。

植松伸夫のニコ生の記録。当時のスクウェアの危機的状況を語っている。

また別のニコ生のレポート。渋谷員子が社員になったとき坂口・田中のふたりがまだバイトだったことがわかる。
坂口博信は複数のインタビューでも大学に戻る選択を考えていたことを語っており、田中氏も銀座時代に就職を決めようとしたら会社が傾き始めたとインタビューで言っている。だから二人ともFF1スタートの頃はまだバイトだったようだ。いつごろ社員になったのかはわからない…
なお、青木和彦がヤニでHDDを破壊した件については後にファミ通2021年12月30日号で否定している。
訂正:90年代の有価証券報告書によると、坂口・田中ともに86年4月「入社」となっているそうです。たぶん、このとき社員になった?
3月入社の渋谷さんより後という情報とも矛盾はない。田中氏のロングインタビューの言い方からもうちょっと後かとも思っていたんですが…
またバイト待遇とは無関係に、坂口氏はFF1後もかなり長いこと大学に籍があったようです)

FF3までの話。石井浩一がホワイトボードに四元素を書いてたところがはじまりらしい。石井氏がFF1の企画の発端メンバーであったことを裏付ける

後編は456の話だが、吉井清史、成田賢への言及がある。
ギルガメッシュ坂口博信が知らないうちに勝手にできてた話は何度か聞いてたが、これもバトルの伊藤裕之のほうなのか…

FFオリジンの紹介を兼ねた35周年放送。坂口博信植松伸夫などのほか、37分あたりで河津秋敏の出演動画。ストーリー部分について、あまり他で言ってない情報。初期段階の構成に坂口博信も参加していたこと、そして時間を操るボスについてプログラマーの岡部さんがアイデアを出したことを話している。坂口博信がストーリーをまとめたらしい?
また1時間2分ごろ田中弘道の動画出演。バトルについて河津氏と田中氏の受け持ち範囲については、この動画が比較的わかりやすい気がする。田中作品でゼノギアスまで全部同じ経験値テーブルなのは結構有名なようだが、直接語ってるのは珍しいか?
1時間5分ごろには石井浩一のコメント。クラスチェンジはウィザードリィの影響としている。坂口さん河津さん田中さんも当然入れるものと考えていただろう、としているが、主導したのは石井氏だったのかな?キャラクターデザインの関わる要素でもあるし。
また北瀬氏が石井氏の仕事ぶりを語っているのは割と珍しい。

のちにATBを考案する伊藤裕之のインタビュー。ネタバレとあるが、3ページ目の前半を読む分には問題ない。
伊藤氏は1987年6月6日入社で、FF1にはデバッグで参加していたらしい。また銀座のスクウェアのビルも登場。まだ新人を雇う余裕はあったようだ。

Gpara.com クリエイターズ・ファイル:『ファイナルファンタジー』の世界観の根幹を築いた天野喜孝氏

Gpara.comのインタビューのアーカイブ。天野氏への依頼経緯はあやふやであることがわかった。

旧スクウェア公式サイトの会社沿革

86年9月から銀座で株式会社スクウェアその前が日吉。
87年9月から御徒町
訂正:日吉から銀座に移転したのはスクウェアになる前、86年4月とのことです。86年ごろの会社案内の写真(メルカリに出ていた)で確認できました。

以下はネットで無料で読めない参考資料。
電子書籍のリンクはBookwalkerにしておく

2000年の『ゲーム大国ニッポン神々の興亡-2兆円市場の未来を拓いた男たち』の復刻版。分冊された4冊目に坂口博信鈴木尚のインタビューが掲載されている。あとがきもこの巻に収録されており、インタビューの経緯や時期もはっきりしている。
鈴木尚コーエーで移植の実作業をやっていた話は貴重。また87年当時のスクウェアの危機的状況も語っている。

FF1から6の開発資料が掲載されている超重要文献。FF1では、石井浩一時田貴司と共に制作したという横画面戦闘の試作画像も掲載されている。
魔法のフレーバーテキストや、アストスの名前がギルモンだったなど初期設定が読み取れる資料もあり。

ピクセルリマスター特集で、かなりたくさんのFFスタッフがコメントを寄せている。
FF1関係だと田中弘道河津秋敏のほか、珍しい成田賢のコメントあり。
また河津コメントに岡部さんについての言及。
※この記事での河津氏は「『FFII』の開発期間は正味5ヵ月くらいだったはず」とコメントしているが、これはコメントの内容からも明らかにFF1の間違い。FF2の開発期間はもうちょっと長いことは、資料からも別の河津発言からもわかっている。

日経BPの本『日本ゲーム産業史』。タイトルのそっくりな『日本デジタルゲーム産業史』(人文書院)とは発刊時期も近いが別物。
これが今回、もっとも扱いに困った文献。書誌紹介でも試し読み範囲でも全くわからないが、スクウェア古参メンバーのインタビュー掲載。詳細は後で述べる。
電子版もあったからリンクを貼ったが、これは図書館で読んだので買ってない。

洋書なのでこれだけKindleのリンク。時田貴司と、ナーシャ・ジベリのインタビューが載っている
時田氏のほうも発売中止になったディスクシステム版『エイリアン2』の話をしているのが興味深い。

以下は電子版がない書籍(買ったのと図書館で読んだとある)

  • 『ゲーム・マエストロ』(VOL.1と3)

VOl1に坂口博信のインタビュー。VOL3に植松伸夫
現在となっては上記ネットのインタビューと内容がかぶってる部分が多かったが、参考にはなった。

  • 寺田憲史『ルーカスを超える―アニメ・ゲームビジネス創作術』

寺田憲史の自伝に絡めた創作論。FFについて、他で聞かない興味深い情報が多数。

こちらはFF2の小説だが、あとがきにFF1開発時の情報も少し。
このあとがきから、寺田氏が開発中にスクウェアを一度は訪れて何人かのスタッフと会っていることがわかる。だが渋谷員子など重要なスタッフとFF2後の忘年会で初めて会ったことも書いており、それほど頻繁に訪問はしていないのだろうということもわかった。

石井浩一らスタッフコメントあり。石井氏はアクションRPGを作りたくてFFのバトル画面を生み出したのだと言っている。石井氏のFF1の仕事が判明する資料としては最古の部類ではないだろうか。

このあたりが、今回調べまわった中でFF1に関わる資料。
見ての通り、大半のインタビューはネットで読める。
書籍も購入困難なものは図書館で何とかなるだろう。興味があれば都会のでかい図書館を探してください。

その他、参考にしたウェブサイト

FF1 - ファイナルファンタジー 最新情報
参加スタッフや開発経緯の情報源などで、こちらを参考にしました。通しでの開発経緯をまとめている数少ないサイトでもあります。

FrontPage - [SQRT]担当解析編
スタッフの仕事の膨大なデータベースです。非常に勉強になりました。管理者のスベアキさんからも、幾つか直接情報をお教えいただきましたことをこの場でお礼申し上げます。

6月19日:スベアキさんから追加で情報を頂きましたので、一部箇所追記・訂正を行いました。

6月23日:伊藤裕之のインタビューを追加。一部情報を反映。

かくして、参考資料の情報をかみ砕くとFF1の開発経緯は以下のような感じになる。

石井浩一から始まった

坂口博信ファミコンRPGを創ろうと本気で構想し始めたのが、どうもドラクエ1の発売後。しかしなかなか着手することはできなかったようだ。
最初に動き出したのは、のちに『聖剣伝説』の生みの親として名を知られる石井浩一だった。
石井氏はアーケードでドンキーコングをプレイして以来、ゲームで世界を表現することに興味を持っていたが、それでゲーム業界を目指したわけではなく、銀座で黒服をやっていたという異色の経歴の持ち主だ。かわいい絵の描かれた企画書を面接に持ち込み、その強烈な個性で坂口博信の目に留まる。

FF1のはじまりで石井氏が言われたのは、
>『ドラクエ(ドラゴンクエスト)』みたいなRPGを作るから「石井、企画を考えとけ!」(FF3の30周年インタビュー)
とのことで、坂口チームが『ハイウェイスター』を開発しているのを横目に、一人で企画を進めた。
石井氏は『ゼルダの伝説』も『ドラゴンクエスト』も知っていた。既にファミコンRPG好きになった人間だったのだ。
この石井氏ひとりの期間はそれほど長くはない感じなのだが、その短期間に結構な量のアイデアが出たんだろうとも思える。時田貴司の協力で、ドットの打ち方を覚えて横向き戦闘画面の原型を作ったのもこの頃らしい。

もうひとり参加したのが、後にサガシリーズを生み出しと呼ばれる男、河津秋敏だった。彼もゲーム開発の経験こそなかったが、『Beep』でライターをやった経験もあり、AppleIIのゲームだけでなく、TRPGにも詳しかった。コンピューターRPGと、源流のTRPGの両方を知る貴重な人物。
WizardryなどがTRPGのルールに基づいて構成されたゲームであることは当時もよく知られており、モンスターだけD&Dから持ってくるようなことは他社でも行われていた。だが、実際に両方に詳しく、それぞれの違いを正確に認識している人間となると、それなりに珍しかったと思われる。
彼もその知識を評価され、やはりバイトで入社。
ただし、河津氏は石井氏と違い、すぐにFFに参加したわけではない。『ハイウェイスター』のデータ作りに参加したとしている。

ハイウェイスターを終えたチームは石井浩一と合流。
河津氏の回顧によるとFF1のストーリーや主要なアイデアの多くはすぐできたようだが(社長が訊くFFCCクリスタルベアラー)、どうも石井氏一人であらかじめてできていた部分も多かったのではないだろうか。
また正確には坂口博信プログラマーの岡部さんもストーリー原案に参加していた(FINAL FANTASY バースデー記念公式生放送)。

こうして坂口博信のもとには最強の初期メンバーが揃ったわけだが、以降のエピソードは、意外とはっきりしない。
というか、ここからの開発期間は半年ないくらいらしい。ハイウェイスターの発売日から考えても、実際にそのくらいか。

FF1の開発期間

ファイナルファンタジー』までに、坂口博信が関わったファミコンソフトは以下の通り。

発売日 タイトル 形態
1986.9.18 キングスナイト カセット
1987.3.12 とびだせ大作戦 ディスク
1987.8.7 ハイウェイスター カセット
1987.12.1 中山美穂のトキメキハイスクール ディスク
1987.12.18 ファイナルファンタジー カセット

同時期にはPCの『キングスナイトスペシャル』にも関わってるっぽい。『とびだせ大作戦』のカセット版である『JJ』は関わってるか不明。
ファミコンカセットについては、スクウェアの場合はだいたい完成から発売まで3ヶ月ほどズレてるものと考えられる。時期やメーカーによって違うようでもあるが…
発売日から考えても『ファイナルファンタジー』の完成時期はスクウェア御徒町に移転する9月ごろ。移転後に開発した話はあまり伝わってこず、どうもデバッグくらいしかやっていないようだ(『日本ゲーム産業史』にはそう書いてある)。ファイナルファンタジーは銀座時代にだいたい完成していたと考えられる。
一方、ディスクシステムは完成から発売までの期間が短かった。任天堂の『パルテナの鏡』なら発売3日前まで開発していたという狂ったエピソードがある。『ファイナルファンタジー』完成後に参加したはずの『中山美穂のトキメキハイスクール』(同じく任天堂発売)が先に発売しているのはそのためだろう。
ただ『とびだせ大作戦』の完成時期は不明だ。こっちは3日前ということはないと思われる。マスターアップから生産までの期間は短いと言っても、任天堂の発売じゃないやつはさらに事情も違うだろうし、ハイウェイスターの完成を4月ごろと見込むと、『とびだせ大作戦』については完成から発売まで少々ラグがある感じ。メガネの生産もあったはずだし、たぶん少し多くかかってるのだろう。

参考記事:

パルテナの鏡を3日前まで開発していた話。
この記事では中山美穂についてはスクウェア参加を言いにくかったのか、真実を語ってない。開発期間2週間というのは、実際は坂口博信坂本賀勇らと合流してからの期間。

河津秋敏がFFポータルの動画などで語っているところによると、FF1の開発期間は、『ハイウェイスター』の完成後から半年ないくらいである。動画では渋谷員子も横で発言を聞いており、特に異論などもなかった。
8月発売のハイウェイスターの完成が4月ごろだろうか。時期の辻褄も合う。発売日と完成時期のラグが正確に3ヵ月ではないとして、半年かかってないという証言、信憑性がかなり高い。

だが1年という説もある。
『電脳のサムライたち4 ゲーム創世記 神クリエイターたちのゲーム創作秘話4』の坂口博信のインタビュー(99年10月実施)によると、RPGの開発を社長に掛け合ってから開発に1年没頭したとなっている。これは当時としては異例の長期間なのだと。
ただ、このソースはインタビューした著者の文と坂口氏の発言が混ざっており、「1年」というのが坂口氏自身の言葉かは微妙に不明。坂口氏の言葉を大きく歪めていることはないと思うが。
時系列から考えても半年で合ってると思うのだが、坂口博信の記憶が間違っているのか?それともインタビューの聞き間違い、書き間違い?
思うに坂口博信が社長にRPG開発を掛け合うなどしたのがFF1の発売か完成の一年前、86年後半なんではなかろうか。
つまり、1年というのは坂口博信の構想開始から人集めも計測した期間。しかし実際は坂口チームはとびだせ大作戦とハイウェイスターを優先して開発する必要があった。ナーシャ・ジベリが入ってきたのも86年後半であり、会社としてもここでナーシャの手腕を発揮してもらう必要があった。チーム自体はできていたが、FF1としての実質の開発期間は半年足らずだったのだろう。
半年がベースとして、視点を変えると1年というのも間違いではない、と見る。
なお当時のスクウェアの体制から考えると、半年でも十分に長い方だったと思われる。

実際の開発スタートが4月ごろだとすると、別の重大な意味がある。ファミコン初のバッテリーバックアップ搭載タイトルである森田将棋が87年4月の発売だ。FF1はかなり最初からバックアップカセットを想定しており、セーブ前提の複雑なデータを持つRPGとして開発していたと思われる。

追記:やはりハイウェイスターのマスターアップは4月ごろのようです。

twitpicのリンクが生成されていませんが、URLを張り付ければ画像は確認できます。ハイウェイスターのマスターと思われるディスクに87年4月9日?の日付が書かれています。ただしメディアはディスクカードで、タイトルも『とびだせレーシング』となっています。
発売までのラグが長いのは、ここから改めてカセットに変更したか。

人が増えてくる

河津・石井のコンビは企画を進めたが、これだけでは完成しなかった。重要なのは、おそらくけっこう早い段階で田中弘道が参加したことだった。田中氏はゲームデザイン全般に関わっているようで、バトル設計にも関わっているし、プログラマー向けの指示書も田中氏が書いている(坂口博信も書いているらしい)。
RPGをわかってないナーシャにはバトルプログラムはできなかった。バトルプログラムは吉井清史とされるが、他のプログラマーも参加している。
なんだかんだで他チームからも人が来る状態だったようだ。
時田貴司によれば、当初から大人数だったというふうに見えていたようでもある。どうも、最初に4人くらいしかいなかった時期というのが、かなり短いんじゃないだろうか。時田氏もメインではないが、結構な範囲で協力していたことは確実。グラフィックチームは他にも参加している人がいたようだ。

パッケージイラストとモンスターデザインには、石井浩一が推していた天野喜孝が起用された。
シナリオにはスクウェアの営業の斎藤氏と親交のあった寺田憲史。実績ある外部スタッフの起用も売りとしてアピールしていた。

FF1のスタッフ

FF1のスタッフロールでクレジットされているのはナーシャ・ジベリ天野喜孝寺田憲史の3人のみ。あとのスクウェア社員はA-TEAMでひとまとめになっている。

判明しているスタッフは以下の通り。

スクウェアAチームのリーダー。のちに『ファイナルファンタジーの生みの親』として名を残すクリエイターだ。84年のスクウェア立ち上げ期からの初期メンバーであり、かなり早い段階で開発のトップのような立場になっていた。FF1当時も実はまだ大学に籍のあるバイトだったようなのだが訂正:まだ学生だがバイトではなかった可能性が高い)、田中弘道と共にバイトの面接も行う立場にいた。
FF1で果たした役割はメンバー集めに始まり、タイトル決定、外部クリエイターの起用、出荷数40万本を押し通す、早くも続編の構想と、この当時からプロデュース寄りの仕事が目立つ。
ただ開発現場でもチームから出てきたアイデアを通すのは坂口氏の仕事だし、シナリオは自分で書いていた可能性は高い。坂口博信は関わってきたFFの多くで自身もシナリオに関与しているが、1でもたぶんそうだろう。少なくとも原案段階では河津・石井とともに参加している。
というか、FF1のシナリオを書いた人間は寺田憲史しか知られていないのだが、寺田氏ひとりで細かいセリフまで書いたとも思えず、現場で他の人も書いていたと考えたほうが自然だ。


特にこういうセリフは坂口博信の関与が強く疑われる。FF3や5と文体が似すぎる。
ファファファって何や。

坂口博信ファミコンの仕様は理解していても、自分でプログラムまではしていなかったようだ。のちの作品ではキャラクターを動かすスクリプト的なものをプログラム段階で作ってもらったようだが(このへんは『ゲームマエストロ』のインタビューにある)、この頃はそこまで自由にイベントを組むことはできなかった。
だからこの頃はイベント作成はナーシャなどに依頼していたようだが、FF1のイベントは文字表示だけで済むものが多い。
文字の打ち込み、修正くらいは自分でやっていたかも…

プログラムの指示書は田中氏が書いていたものが多いようなのだが、坂口作のものもあるようだ。

バトル以外のプログラム全般を担当した。バトルに関しては最初期は挑戦したのかもしれないが、RPGの知識のない彼には難しく、すぐに別のプログラマーと交代したようだ。初期FFのバトル部分には、あまり関与していないと考えられている。
バトル以外についても、プログラムの組み方は田中弘道が主に指示していたようだ。
ナーシャの実力が発揮されているのは高速で飛ぶ飛空艇とかだが、バトル以外のものであれば単純な処理も全般的に関わっていると思われる。
また田中弘道の参加は途中からなので、それまでは坂口博信らの指示で何とかしていたと思われる。
あと開発中に勝手に15パズルを入れたエピソードは有名。

「The Untold History of Japanese Game Developers Volume 3」のインタビューでは、
別のグラフィック担当がいたFF1の開発体制はそれまでと違っていた旨を言っている。実際は『ハイウェイスター』も『とびだせ大作戦』もグラフィックや音楽で分業しているが、あれらはナーシャのゲームという認識が本人にはあったようだ。

またナーシャには英語しか通じなかったため、プログラムの指示書はかなり咀嚼、簡略化して書く必要があった。
どうもこれがワークフローを作りだすことになり、良かったのではないかとは坂口博信の見解(KYOTO CMEX 2017の講演)。
それまでのスクウェアではワークフローができてなかったってことかな…

FF2のチョコボ、FF3のキャラクタードット、聖剣伝説のモンスターデザインと、石井氏は絵の仕事が有名だが、自身の立場は当初から企画だとしている。
FF1で判明している仕事は四元素からなる世界観の原案、人間キャラクターのデザイン、横向きバトル画面のデザイン。またプロローグ後にタイトル画面、最初のボスがラスボスというところまで石井氏が一人の時期に用意していたアイデアだという。クラスチェンジもどうやら提案した?
担当範囲の幅広い人で、他にもアイデアを出していた可能性は高い。
ゲーム開発の経験がない石井氏はファミコンの仕様には疎かったのだが、それ故に自由なアイデアを出せたようだ。そしてある程度の無理は実現できるスタッフもいた。
その美的感覚、雰囲気作りの上手さは初期FFの全体に大きく影響している。
またFF1には石井氏の代表作『聖剣伝説』と全く同じ芸風のシステムメッセージ、やたらノリのいい店員などが大量に出てくる。もしかしたらこのあたりは石井氏の担当だったのかも…

石井氏はグラフィックの担当ではないのだが、キャラクターについてはデザインだけではなく、一部ドットの修正を自分でもやっているようだ。
企画段階でバトル画面のイメージも時田貴司と協力して作ったことが判明しており、ドットの打ち方はこのとき習得したようだ。
このとき描かれた初期イメージ画像には、既に現在とほぼ同一のドットの黒魔術師、現在とはバランスがかなり異なるが白魔術師の原型となったキャラクター、そして高頭身の赤魔導師に近いキャラクターが登場している。デザインだけでなく、ドットそのものも石井氏が原型を描いていたのである。
これを渋谷員子が直したりポーズを追加するなどして、現在の形にまとまったのだと思われる。

グラフィック全般を担当。坂口博信とは前年からよく組んでおり、グラフィック部分の最重要スタッフと考えられる。石井氏の原型に基づき、2頭身ドットキャラを完成させた、業界の重要人物。
キャラクター以外も一通り関わっていると思われる。モンスターもマップもやっていることは確実で、フォントもたぶんやっている。
ただし全部を一人でやったわけではなく、他のスタッフも入っているようだ。
天野喜孝の原画のないモンスターのデザインはグラフィックチームの仕事としており、渋谷氏もデザインしているようだし、他の人の作もあるようだが、分担は不明点が多い。
渋谷作のモンスターは天野の画風を意識したものになっているらしい。

また天野喜孝の担当でもあり、横浜のアトリエまで絵を取りに行くのは彼女の仕事だった。

バトル担当。ただし当時の河津氏はまだ仕様に疎く、田中氏が手を入れている。味方側のパラメータ設定は田中氏の担当した範囲が多いらしい。
一方、河津氏はシナリオもゲームシステムも何でもやる作風で知られるが、FF1のシナリオでの関与率は不明。ゲーム全体の初期の方向性は石井氏らと決めた部分が多いらしく、ストーリーについてもプロットあたりまでは関わっているようだが、仕上げ段階に関与してるのかはわからない。自他ともに言及がないことから、FF1のシナリオには原案以降はあまり関わってない感じではある。
またプログラムやゲーム作りのやり方については田中弘道や安達景太郎から教わったとしており、FF1の開発当時はまだイベントなどを直接いじることはできなかったと考えられる。
(FF2の頃には既にイベントの修正を自分でやっていたようである)

田中氏が手掛けていたのはゲームの設計。プログラムの技術も知識も持っており、河津氏の書いた仕様をプログラマー用にまとめ直すなどしていた。ゲームデザインにもかなりの範囲で関わっていると思われ、経験値テーブルや回復の計算などは田中氏が決めていたようだ。『GENESIS』というRPGの制作経験も生かされているようだ。
キャリアから見ても坂口博信と同等の重鎮なのだが、いわゆるゲームデザインは田中氏のほうが主導であり、プロデューサー的立場の強い坂口氏とダブル監督みたいな立場だったと思われる。
『トム・ソーヤ』のチーム編成後にBチームから異動してきた経緯としては、直接誰かから手伝いを要請されたようなのだが、誰からの要請かは不明。途中参加のはずだが、伝わっている話を見る限りでは河津氏が初期の仕様を書いたちょっと後、比較的早い段階で参加しているようにも見える。
田中氏はこの時点ではまだBチームのトップか、それに近い重要メンバーだったはずなのだが、トム・ソーヤは開発初期で抜けているようだ。会社の危機を感じていたのも、あるかもしれない。
他のBチームの人間もFF1に入ってきてるようである。

田中氏はファミコンの仕様を深く理解しており、データを敷き詰めて容量を使い切る作業が得意というか、SFC末期の『聖剣伝説3』に至るまで本人がこれを好んでやっていたふしがある。
FF2の資料の中に、フォントを含めたグラフィックデータの厳密な指示書というのがあり、渋谷員子がこれを所持していた。「データのテトリス」というくらいデータが敷き詰められているんだと評されていた。
いっぽう、田中氏はストーリーも書けるし、実は絵も描けるらしいが、このFF1ではそれらに直接関与している様子はない。

のちに担当範囲の多いプロデューサーとして名を知られるが、この当時はグラフィックが本業だった。
なぜかオリジナルスタッフとしてはクレジットされていないが、時田氏がFF1に参加していたことは確実で、最初に石井浩一ひとりの頃に初期企画書に協力し、これ専用のモンスターのドットを描いた。

社内ではチーム分けがされていたものの、当時の時田氏らグラフィック担当は仕事が終わると次のチームに移動ということをやっており、各チームを飛び回っていたようだ(渋谷氏は坂口チームに安定していた期間が長いせいか、こういう話が出てこない)。
そのため時田氏はスクウェアでのデビュー作『エイリアン2』以降、この87年ごろのあらゆるタイトルに参加しているのだが、FF1にも初期トムソーヤと同時期にヘルプで参加しているらしい。トムソーヤのほうがメインだったようだが、客観的に見るとFF1でもかなり重要な仕事をしている。

自身が明かしているのは、ゴブリン、バレッテ、ワールドマップ画面のドラゴンのエンブレム、そしてデスマシーンだ。デスマシーンは原画のないモンスターの一体で、サガに登場していることからもデザイン自体が時田氏の手によると思われる。

FFシリーズ複数に参加しているプログラマー。PS版・WSC版FF1のエンディングでオリジナルスタッフとしてクレジットされている。
各インタビューであまり言及が出てこないのだが、ナーシャに代わりFF1のバトルプログラムを手掛けたのは吉井氏だと伝えられている。
トムソーヤにクレジットされているので、本来はBチーム所属だったのだろうか。

こちらもFFシリーズ複数に参加しているプログラマー
PS版・WSC版FF1のエンディングで、成田氏もオリジナルスタッフとしてクレジットされているのが確認できる。
ただFF1での担当範囲は証言が少なく、はっきりしない。ファミ通2021年12月30日号に寄せたコメントによると当時は夜間大学に行っていたようだ。

  • 安達景太郎

やはりFFシリーズやサガシリーズなど複数に参加しているプログラマー
安達氏はオリジナルスタッフとしてクレジットされていないのだが、WE ARE VANA'DIELで河津氏が言及しているところからどうやらFF1にも参加しているようだ。こちらもトムソーヤにクレジットされている。

  • 岡部さん(?)

ファミ通2021年12月30日号やFFオリジンの生放送などで河津氏が「プログラマーの岡部さん」に言及している。ラスボスが時間と関係ある敵なのは、岡部氏の案によるようだ。
FF2やサガ1と2に参加している「おかべ なおき」氏であろうと思うが、その後のスクウェア作品には参加していないようで、名前の表記も定かでない。
クレジットされていないプログラマーが複数いたことは確かのようだ。

86年入社。この時期のスクウェア作品全体に参加しており、単一チームの所属ではなかったはず。だが坂口博信とは入社時からつながりが強い。入社前のブラスティーから参加しているが、入社後の初作品はキングスナイトとのこと。
FF1は最初にデモテープを坂口博信に聞かせたところ没をくらい、デモテープの順番を入れ替えて持っていったらOKになったという酷いエピソードがある。作曲依頼や選曲はおそらく坂口博信の担当だったのだろう。坂口博信がミュージシャン志望だった経験から、音楽については具体的なやりとりができたようだ。

FF1ではパッケージなどのイメージイラストと、モンスターデザインの多くを手掛けた。タイトルロゴも描いている。
石井浩一天野喜孝の起用前から影響を受けているようだ。赤魔導士がDなのはそういうことだろう。

シナリオ担当。FF3までシナリオを手掛けた重要人物だが、正直に言って、寺田氏の関与については謎が多い。関係者からの言及が皆無なのだ…
寺田氏と話したとか、制作時に寺田氏のシナリオを見たとか、そういう話が全然出てこない。
これは寺田氏がFFを離れた4以降の話ではなく、3までの時期でもFFについてのインタビューはあまりないようだ。ファミコン通信1988年9月2日号で遠藤雅伸と対談していた、というのは見つかったが。

寺田氏の情報が多いのは2000年の自著『ルーカスを超える』。スクウェアが銀座に移った頃(1986年4月以降)、高校時代の友人の斎藤哲(坂口博信によると、斎藤氏は当時の会社のナンバーツーの取締役)から誘いを受け、まずは飲みに行ったとしている。
これはスクウェアの企画のスタッフが寺田氏のことを知っていたから飲みたい、という流れであり、それはFFの仕事を依頼する場ではなかったようだ。ひょっとしたら、これはFF1の企画スタートより前なのかも。飲み会を要望したのが坂口博信だったのかも不明である。
ただ坂口博信がその場にいたのは確かで、シナリオ論をいろいろ語った寺田氏は、後日にFF1のシナリオを依頼されたようだ。

坂口博信以外にも会った人はいるようだ。『夢魔の迷宮』のあとがきでは銀座のスクウェアを訪れたときのことを書いており、何人か主要スタッフの名前が出てくる。ただメンバー全員とは会ってないようだし、坂口博信以外とはそれほど密にやり取りはしていない感じ。

寺田氏はシナリオを担当しただけでなく、プロデューサー的な視点を持つ人物だった(FF以外の作品についても)。著書によると、坂口博信は当初タイトル通りファイナルファンタジーをシリーズ化する意思がなかったのだが、寺田氏はそれを聞いてシリーズ化するつもりで作ろうと意見を出したようなのだ。そしてシリーズ化の際にクリスタルを重要な存在とすることは寺田氏が提案したとしている。
そういや、6以降はクリスタルがないがしろにされてたの、あれは坂口博信にはそれほどこだわりがなかったってことか…?

またシナリオ以外でもうひとつ寺田氏が関わっている可能性があるのが、天野喜孝のことだ。寺田氏の著書によると、FF1の仕事を受けたのち、「現場の要望もあって」天野喜孝に連絡をしたのは寺田氏であり坂口博信とともに横浜の天野の事務所に行って依頼もしたというのである。
それ、重要な話なのだが。
機甲創世記モスピーダ』で天野喜孝と仕事をしていたという寺田氏、連絡先を知っていたのは自然である。(面識はなかったとはしている)
これは本当なんだろうか。本当かもしれない。天野氏の起用を決めたのは坂口博信として、依頼は寺田氏を経由すればスムーズに進んだだろう。

これら寺田氏の関わりは、寺田氏自身からしか出てきていない情報だ。果たしてどこまで事実なのか、個人的には信じてよい内容と考えるが…
天野氏への依頼経緯については、石井浩一の話と食い違いがある。石井氏によると坂口博信渋谷員子の3人で依頼に行ったとしている。
これは、石井氏たちが天野氏を訪ねたのは事実として、実際には坂口側から話は既に通っていて、絵のスタッフ二人を連れて本依頼として行ったということではないかなあと、そう考えると寺田氏の記述と大きな齟齬はない。
わからないけど。

FF1のスタッフはこれで全員ではないと思う。まだまだ関わっていそうな雰囲気。
山を緑で描いていたら宮本社長にダメ出しされたのはわかっている。また青木和彦の名前が出てくる資料があったので、比較的関わりが強そうなのだが、直接参加を示す情報はなかった。坂口博信は青木さんはCチームだったとしている。たぶん、半熟英雄につながるチーム?
追記:伊藤裕之デバッグに参加していたことはインタビューで確認。伊藤氏はスクウェアのトム・ソーヤで「企画」としてクレジットされているが、6月の入社当初はMSXのゲーム(タイトル不明)をやっていたようなので、トムソーヤへの参加はおそらくFF1後。

ストーリー制作過程

はっきりしているのは、寺田憲史ファイナルファンタジーの原作者ではなく、世界観をゼロから作った人物ではない。
著書によると、「ゲームの素材」「まとまらないままのゲームとしてのアイデア・フラッシュのようなもの」スクウェア側からもらったことを書いており、クリスタルもそこにあったものだということも書いている。

後年のインタビューより、四大元素をテーマにしたFF1の世界観は石井浩一の発案であり、カオス討伐の基本的なストーリーは河津・石井らで1日くらいで作っていたことが判明している(このプロットはウルティマ1と類似しており、そこもゲームに疎かった寺田氏らしくない)。
つまり、寺田氏は基本プロットを受け継いだ形でシナリオを執筆したのであり、使い方の決まっていないアイデアをシナリオとしてまとめ直すことや、セリフなどを書くことを担当した、脚本家としての仕事をしたのだと考えられる。

そしてひとつ推測できるのは、寺田氏のストーリーをさらにゲーム用に書き直すような仕事をしていたのが坂口博信だったのではないか、ということだ。
いろいろ見てきた限り、周囲の情報に反して坂口氏本人はFF1ではシナリオを書いたと主張してきていない。ゼロから書いていたわけではないから、主張が控えめになっているのではないかと。
だがゲーム制作の経験がなかったFF1当時の寺田氏のシナリオ、そのままでは使えなかった可能性は高いし、本筋に関わらないモブのセリフまで書いているとも考えにくい。田中弘道黒川文雄のインタビューした記事で、Iの時点で坂口博信がシナリオを書いてたことを証言している。

また寺田氏の作風からも推測できるものがある。『悠久の風伝説』(CD)のナレーション部分は寺田氏が書いてるらしい。寺田氏の著書『夢魔の迷宮』や『悠久の風伝説』(漫画)にも同様の語りは出てくる。

この「語り」こそ初期FFの特徴で、このへんは寺田シナリオにあったものか、原型をかなり残している可能性が高い…
また寺田氏はアニメ脚本家でもあるので、主要人物のセリフなんかは書き直されたとしても原型はけっこう残ってるかも?とか思う。
カオスを倒してラスダンに向かう流れはスクウェア側からのものとして、なんとなくカオスと関わらないマトーヤ、ウネ、アストスといった雰囲気のある固有名詞は誰が考えたものかよくわからず、寺田氏から出ている感じも…
(なお開発資料ではアストスではなくギルモンという名前だったことが確認できるのだが、この時点でダンジョンやモンスターのほぼ完全なリストが完成しており、アストスへの変更はかなり開発の後のほうであると思われる)

とにかくFF1では、世界観については寺田氏が考えていない可能性が高いのだが、それを考慮しても寺田氏の影響はかなり残っているんじゃないかと思う。
なんで寺田氏の名前が出てこなくなったのかは、わかんない。
昔からあまり出ていなかった気はするという、不思議な認識もあるのだが。

(なお寺田氏の関わった範囲について、FF2の資料から別にわかったことがあるのだが、こちらは河津秋敏の関与率が明らかに上がっており、1とは事情が違う感じがする。これも別の機会にまとめることにする。
寺田氏はFF2と同時期くらいにファミコン燃える!お兄さんに参加してゲーム制作の理解を深めており、3ではクリスタルの扱いも含めてもっと強く関わってるんじゃないかと思う)

スクウェアのトム・ソーヤ』について

複数の関係者がスクウェアのトム・ソーヤ』に言及しているが、発売はFF1の2年後の1989年11月だ。FF1の2年も後のゲームなのだが、なぜ87年に名前が出てくるのか。
だが本作については複数の証言が一致しており、どうやら間違いではないようだ。トムソーヤは発売の2年も前、FF1と同時期に開発が始まっていた。

明確な情報として、完成してからも会社の判断で発売されなかったと植松伸夫がニコ生で証言している。作曲時期も半熟英雄、FF2と同時期とのこと。
FF1と同時期に本作に関わった時田貴司も、FFポータルの動画では半熟英雄とFF2とトムソーヤのチームが同時期に存在していたと証言している。
つまりFF2と同時期にはまだ開発しており、発売の遅れだけではなく開発期間もそれなりに長い。時田氏がトムソーヤに参加したのはFF1の時期で、88年にはあまり関わっていないようだ。
開発の遅れの直接の原因として、田中弘道ら重要なスタッフが途中で抜けたことが影響していると思われる。何人かはFF1後に戻っただろうが、田中氏は『中山美穂のトキメキハイスクール』に参加し、翌年はFF2に参加して、おそらくトムソーヤに戻れたタイミングがない、あってもごくわずかな期間だろう。
田中氏の存在が初期FFに大きく影響したことは明らかだが、その逆を食らったのがトムソーヤだったと思われる。

またFF2の次作として紹介している広告があったそうだ。この時のタイトルは『トム・ソーヤ シンドローム ミシシッピーを越えて』。
完成はFF2と同時期か、少し後か。おおむね発売の目処が立っていたが、88年の年末には会社の期待度の高いFF2に注力したといったところか。
そこからさらに延期の判断がされたのだろう。特にセタの『トム・ソーヤーの冒険』(89年2月)とぶつかるのを回避した可能性は極めて高く、タイトルの変更もされた。ゲームはできていても説明書やら広報資料の作り直しなどもあったはずで、出すタイミングを完全に逃して、ずるずると伸びていった背景が見えてくる。

社外シナリオライターの起用

スクウェアのトム・ソーヤ』のシナリオは作家の小森豪人(馬場祥弘)が書いている、ということになってる。寺田氏と違って、参加経緯は全く不明だが…
寺田氏に限らず、この時期のスクウェアは外部にシナリオを依頼する流れが何かあったのかもしれない。

ドットで描いてきた

天野喜孝は最初はドットで描いてきたという、ドラクエ2鳥山明と同じエピソードがある。残念ながらその絵は現存しないようだが。
(鳥山先生の描いたドットについては前に記事に書いた
余談だが、

この『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』に見られるような「紙に線で書いたドット絵」は、この時期のファミコンにかなり存在した。鬼太郎だけじゃなく、スーパーマリオの説明書とかにもある。
天野喜孝にしろ鳥山明にしろ、ファミコンの資料を集める過程で、こういう絵に遭遇した可能性は高い。知らなかったから描いたわけではなく、むしろファミコンを知ろうとしたから描いてしまったかもしれないのだ。

中山美穂のトキメキハイスクール

FF1を終えた坂口博信が次に手掛けたのが『中山美穂のトキメキハイスクール』だった。
任天堂のゲームであるが、実はスクウェア主導の企画。経緯は任天堂のサイトに書いてある。

坂口博信の参加して以降の開発期間は3ヵ月程度とされる。FF1の完成した9月から始まって、12月の発売直前までってことだろう。

田中弘道によるとマスターアップは発売2日前。パルテナの3日前を越える前人未踏の記録だった。
…ところで坂口チーム参加前にも、スクウェアでこれを作っていた人がいたらしい。スクウェア主導と言っても、途中参加の坂口博信が企画したゲームではないようだ。

サガ30周年の動画によると、河津氏がシナリオを書いていた時点で中山美穂の電話は既に録音されており、時田氏もグラフィックに何かベースとなるものはあったらしい…
電話のセリフを書いたのは誰なんだ?なんで途中参加の人がそれに合わせてシナリオを書いてるんだ?
FF1と違い、時田氏もそれなりにメインでの参加のようだ。既にAチーム体制ではなかったのだろう。
またスタッフロールにはH.TANAKAなどは確認できるが、なぜか坂口・河津らしい名前がどちらもクレジットされていないし、クレジットされているメンバーも坂口チーム合流前なのか後なのかもわからない。
時田貴司はエンディングではなく、隠しコマンドで出るスタッフロールにいる。

プレゼン、Aチーム結成の時期

坂口博信が言うチーム分けの時期がどうも曖昧だ。
ユニクロのインタビューで渋谷員子が語ったところによれば、プレゼンが行われたのは入社1年ほどの頃。
渋谷氏はスクウェア初の新卒社員ということだが、学校卒業後の86年3月にはもう入社していたようだ。
で、1年後と言ってもぴったり1年ということもないだろう。渋谷証言から絞りこめる時期は、86年中ではなさそうな雰囲気くらい。
坂口博信の話から考えると、ちょっと、遅い気がするが。

このプレゼン、本当にあったのかというレベルでよくわかんない…
渋谷員子は何かそれらしいものを見たのだろう、としか言えない。田中弘道がプレゼンをしたという話も、時田貴司がそっちのチームを選んだという話も聞こえてこない…

Bチームについて

坂口博信によると、Aチーム結成時には田中弘道のBチームにかなりの人数を持っていかれたらしい。そのときのタイトルは坂口記憶によると『「エイリアン2」の移植作』

エイリアン2』というのはMSX2のゲームで、発売は87年4月ごろらしい。タイトルの通り映画『エイリアン2』のゲーム化作品で、時田貴司(86年入社)のスクウェアデビュー作とのことで、企画は田中弘道
だが移植作とは?
該当するのは発売中止になったディスクシステムの『エイリアン2』なのだが、これ本当かな…
時田氏の海外インタビューによると、ディスクシステム版も近い時期に作っていたようではある。

いろいろ調べたがBチーム作と確認できたのはスタッフロールにBチームと明記されている『スクウェアのトム・ソーヤ』だけだった。
ネット上の情報で気をつけたいのだが、田中弘道の主導した作品がBチーム作とは限らないことだ。坂口、田中のふたりともチーム分け前からそれぞれチームを率いていた。『クレオパトラの魔宝』(87年7月)は田中作だが、Bチームではないのかも…

で、『エイリアン2ディスクシステム)』…これの発売予定時期は不明なのだが、どうも、クレオパトラよりは早いらしい。
問題のプレゼンがFF1の完成の1年前、86年後半ごろだとすれば、エイリアン2にスタッフを取られたという坂口証言は時期的におかしくないのであるが、なんとなくおかしい気がする。坂口氏自身の記憶で「田中チーム」と「Bチーム」の記憶がごっちゃになってて、時期も少しずれてる可能性は、ちょっと疑う。
チーム分けが起きたのは渋谷証言の通り87年前半であり、Bチーム作品というのは、表記通りトムソーヤだけなのではないのか…?

石井浩一の入社時期

石井氏については、坂口博信自身の証言が二通りあり、Aチーム結成後に石井氏をリクルートしたという説と、Aチーム結成時についてきた初期メンバーという説がある。
どっちかが間違ってるとして、どっちだ?

石井氏のほうは。
WE ARE VANA'DIELの石井・天野対談によると石井氏はチーム分けのことは知っていたが、バイトの石井氏には決定権などなく自然に配属されていたことを述べており、自分でチームを選んではいないことがわかる。
チーム分けの瞬間に何があったかを石井氏は見てはおらず、後から聞いたのだろう。
そして石井氏はもうひとつ証言がある。チーム分けは石井氏が入って半年くらいの時期だというのだ。

石井氏のFF1以前の参加タイトルは全く知られておらず、ハイウェイスターにも、とびだせ大作戦にも関わっている形跡がない。坂口博信に見いだされ、数多くのアイデアを生み出す石井氏が、半年間坂口チームに参加せずにいる、坂口博信もそれを放置というのは、ちょっと考えにくいのだが。

ここで別の証言として、田中弘道のFF3インタビューによると、FF1の最初はスクウェアが銀座に移ってきた頃(86年9月?4月以降)石井氏と渋谷氏がふたりで作り始めたのを見ていたというのだ。しかも、ナーシャ・ジベリ10月ごろ8月ごろ参加?)が来たのはその後のような言い方をしている…
石井氏が実際にFF1に着手したのは、入社半年後のチーム分け後だと本人は言っている。田中氏は坂口チームではなかったので、この86年に石井氏を見た記憶はFF1ではなく、別のものだと思う。でも、つながるアイデアは既に作り始めていたのかも?
石井氏がFF1の結構前からいたという記憶自体は、これは合ってる可能性が高い。
なお石井氏がスクウェアを選んだ理由のひとつは、場所が銀座だったからである。日吉時代ではない。石井氏の入社が9月ごろとして、半年くらい後にチーム分けがあったとすれば、やはり87年前半くらいだ。渋谷証言と整合性が取れる。
追記:4月から銀座だったようなので、少し時期が絞りにくくなりました。今の情報では9月ごろでもおかしくはないですが)

石井氏についてはもうひとつ情報があり、石井氏が銀座の黒服をやっていたのは大学時代なんだという。
石井氏は1964年7月生まれ(グレッゾの公式サイトで公表してる)。年齢から、4年制大学なら卒業は最短でも87年3月ということになる。石井氏は86年時点ではまだ大学生だった可能性が高いのだ。黒服をやめたのがこの時期だとして、仕事の時間帯が変わって、思ったより会社に来れなかった可能性がないか?
わからん。特に根拠はない仮説。

入社後の動向は不明なものの、石井氏の記憶はおそらく正しい。石井氏がFF1を企画し始めたのはが入社から半年くらいの87年前半、ハイウェイスターの終わり付近。また時田氏と協力して戦闘画面を描いたのも時田氏がドラクエ2にハマって以降の時期と考えられるので、これも87年前半であることを裏付ける。
FF1に実際に関わった時期は、ハイウェイスターの後半に入ってきた河津氏とそれほど離れていないと思う。
(追記:25thアルティマニアに掲載されている戦闘画面の出力日は1987年4月20日となっている)

河津秋敏の入社時期

河津氏の入社時期はネット上で85年としているところがあるのだが、これは明らかに誤り。本人の発言によると『水晶の龍』(86年12月発売)のCMを見たのよりは後。CMを見たのが発売前後のどちらかは不明だが、86年のかなり後半であろう。
もっと明確な情報として、文化庁メディア芸術祭のサイトに掲載されているプロフィールで87年入社としている。
ハイウェイスターの後のほうで参加ということを考えても、氏の入社は87年の3月か4月か…そのあたりだろう。河津氏はチーム分けのことは話していないが、これは坂口博信の言っている通り、単純にチーム分け後に入ったので見ていない可能性が高い。

河津氏については坂口博信の記憶でも一貫してプレゼン後の参加で、順番も石井氏の後となっている。
石井氏はひとりで企画をやっている時期、河津氏がハイウェイスターを作ってるのを見ていたとしているのだが、たまたま後から入った河津氏が先に実ゲーム開発に関わるという順序だった、と思われる。

影響を与えたゲーム

坂口博信田中弘道も『Wizardry』と『Ultima』を愛好していた。田中氏はウルティマのほうが好きだったようである。
他の国産作品については、よくわからない。スクウェア自身はPC88や98でゲームを作っていたし、社内にはAppleIIを持っているRPG好きはたくさんいたようであるし、キングスナイトはPC88のアクションRPGの影響っぽいが。

しかし初期の方向性を決めたのは石井浩一だった。
石井氏のゲーム歴だが、各インタビューを見る限り当時パソコンを持っていた気配がない。明確な言及としては「自分は『DQ』や『ゼルダの伝説』なども好きだった」と言ってるのがあり、他のRPGの話はしてない。石井氏はファミコンで初めてRPG好きになったのだとすれば、ドラクエの対抗を意識したファイナルファンタジーの企画にうってつけの人物だったといえる。
ただWizardryUltimaなどに言及していることはある。実はAppleIIも持っていた…とはどうも考えにくいのだが、名前だけは知っていたか、入社後に見る機会もあっただろう。
また石井氏はこの頃から既にアクションRPGを作りたかったようなので、アクション系ならゼルダ以外もやっていた可能性は高い。FF1後なら『イース』を知っていたことはわかっている。

また石井氏は他に影響したゲームとしてウインドウ枠は『マリオブラザーズ』のパイプ、指カーソルは『謎の壁ブロック崩し』と、いろいろ明かしているが、言われなければまったくFF1につながる気配が見えない。
何が影響してるか全くわからん
この時期になると、影響元のゲームだっていくつもあり、RPGRPG以外の影響を受けることも普通だった。

石井氏主導で考案された戦闘画面に関しては、過去のRPGからではなく、スーパーマリオリンクの冒険のような横スクロールアクションから着想したものかと考える。さもなくば無から発生したか。似てるRPG自体はあったとして、石井氏が知ってたかは不明だ。
聖剣1の攻略本のコメントから、アクションRPGを作りたかったことが横画面につながったようなのだが、4人が並ぶ画面は最初の時点で決まっていたようだ。
また戦闘画面の企画に協力したのは時田氏だが、こちらもRPGに詳しいほうではなかったようだ。時田氏はドラクエ1をやっていたが、タイマン戦闘にそれほどハマらなかったようなんである。そのうえでドラクエ2から改めてハマったという珍しいパターンだった。参考記事
この経歴から、時田氏もFF1始動時はドラクエ2以外のRPGに詳しくないはず。(FF1の戦闘が最初からパーティ制で考えられていたのは、時田氏の影響もあるのかも?)

一方、河津氏。AppleIIは持っていて(借り物?)、Wizardryはある程度詳しかったようだが、他のゲーム歴についての言及は非常に少なく、ほとんどわからなかった。
ポンをやっていたことと、カセットビジョンが買えなかったことなどがわかったくらい。カセットビジョンは買えなかったってのは、ファミコンは買えてたってことだろうか?それもはっきりわからない。
ゲーム自体はAppleIIでやっていて、TRPGも愛好していた河津氏、実はコンピューターRPGWizardryにたまたま詳しかっただけで、それほど幅広くやっていなかった?
そうかも…

石井氏もインフラビジョンという用語を使ったり、D&D由来モンスターを聖剣伝説シリーズで追加したりと、TRPGの影響もそこそこ受けていることがわかるが、入社後に得た知識なのか入社前から知ってたのかは不明。
四元素への志向の強さはTRPGっぽいのだが、これも単に趣味が似ていただけかもしれない。

GENESIS

田中氏がFF1前に手掛けたとしているRPGが『ジェネシス』だ。プロジェクトEGGでは1987年としているが、実際は87年なのはPC-88版であり、PC-98版は1985年のようだ。
当時の雑誌などからわかるようだが、ネットで確認できる証拠として、初期スクウェアのゲームは通しナンバーがあり、ジェネシスはNo.6で、No.7のブラスティーより先に出ていることがわかる。
すると、どうもGENESISドラゴンスレイヤーの移植を除けばスクウェア最初のRPGということになるのか…?
FF1とも直接つながるタイトルで、ドラゴンクエストの影響も受ける前。画面はウルティマに似ているようだ。今遊ぶ方法もあるみたいだし、ちょっと研究したほうがいいかもしんない…

クレオパトラの魔宝』もRPGのはずだが、植松伸夫もアドベンチャーと言っていたし、田中的にも違うのかもしれない。
ジェネシスと違い、田中氏のクレオパトラへの言及は全く見当たらない。35周年動画のコメントでFF1の前にRPGを2、3本作ったことがあったという発言にクレオパトラが含まれるのかも、くらい。

脱線:不快な参考文献

『日本ゲーム産業史 ゲームソフトの巨人たち』(日経BP社 2016年)は、今回もっとも扱いに困った資料だ。同じ年に出ている『日本デジタルゲーム産業史』(人文書院)と名前も似ているが、全く別の文献。
何に困ったかというと、重要な情報が複数掲載されているのだが、ライターの質が際立って低い。かなり脱線するので、他の参考資料とは節を分けて解説する。

内容としては、ゲーム業界の大手メーカーを社史っぽい雰囲気とともに紹介する本。だが書誌情報でも電子版のサンプルでも把握できないが、実は本書は各メーカーの歴史を語るうえで、中の人に直接インタビューして書かれたページが多いのだ。

スクウェア・エニックスのFF関係からは、青木和彦、河津秋敏渋谷員子時田貴司、松井聡彦、北瀬佳範のインタビューが載っている。
この強烈な6人を一箇所にまとめてインタビューしたようで、6人が並んでる写真が載ってる。その写真に「初期の頃のFF開発に携わったクリエーター」という信じがたいキャプションをつけている。北瀬が、初期?
このページの担当はSFC時代のFFまで「初期」と軽率に言える感覚を持った記者だということがこれだけでわかってしまう。それだけなら公式側にも軽率にそう書く人もいるが…
中期の7以降にも大して興味がないようで、インタビューをFF6までの話で終了させている。
FF11の現役プロデューサー(当時)の松井氏と、5からずっとFFの最前線で活躍している北瀬氏を「初期FFのクリエーター」としか見ていなかった。
彼らが何者かわかってないままインタビューしていたとしか思えない。「なんかしらんけど初期FFに関わった人」くらいの認識。サガなど存在も知らないかもしれない。

こんな認識の人がやったインタビューだけど、面子が面子だけに重要な情報も引き出すことはできている。FF1関係で重要な情報としては、以下のようなもの。

  • 坂口博信ドラクエ1を発売日に買ってきて、青木和彦と交代で一晩でクリアしていたのを渋谷員子が見ていた。
  • 坂口氏のRPG制作にはなかなか会社のゴーサインが出なかった、と河津氏。
  • FF1の開発期間は半年。ゲーム完成は9月。そのあとデバッグ
  • 完成後に慰労でグアムに行って帰ってきたらバグがみつかった、と青木氏。
  • 完成後にスクウェア御徒町に移転し、そこでデバッグした。
  • 初回出荷版のパッケージに入っている注意書きというのがあるが、坂口博信が1枚だけ鶴を折って入れてた。
  • FF1開発中にも坂口博信は既にFF2の話をしていた。
  • 坂口さんはドラクエをすごくライバル視する一方でとてもリスペクトしていた、と河津氏。

これらの情報だけでも、他で聞いたことのないものが多く、かなりの価値があるのだが…
合間にライターが挟んだナーシャ・ジベリの情報はどう見てもネットの聞きかじりだし、セーブという用語を最初に使ったのはFFという明らかな誤認も書き加えている。セーブデパートの話をするまでもなく、『ゼルダの伝説』にSAVEがあったの知らないのか?
または、この中の誰かが近いことを言ったのかもしれないけど(なんで私がレジェンドクリエイターに対してそんな疑いをかけなきゃいかんのだ)、少し調べればわかる間違いなら切り捨てるのもライターの仕事だろうと。
こんなレベルのライターが書いてると、発言をちゃんと引き出せたか以前に、発言内容を正しく聞き取れているかというレベルの不安がある。だから上記情報も、どこまで信じていいか、ものすごく不安がある。

本書の趣旨?に従って、企業史っぽくスクウェアの話を書くのであれば、サガのトップの神がいるのにその話をしないのはあり得ないし。
FFの話に絞って書きたいんだとしたら、FF5と6と7と8と10と13とぶっ通しで偉い人だった北瀬氏がいるのに、なんで「初期」のFF6までに限定してインタビューするんだ?
この本、北瀬氏のコメントは4行しか載っていない。チョコボや黒魔道士、白魔道士が出てきて、あとは作り手が思いっきり自由に思いの丈をぶつければ、それで『FF』なんですよ」とそれっぽいことを言ってるが、あなたの関わったFFの半分くらい白魔道士も黒魔道士も出てないじゃないの!
何か試されてるのか?

章の最後に、FF11MMORPGという聞きなれないジャンルで敬遠された、でもいまやヴァナ・ディールは全てのFFファンに認知されたとか、FF13は当初は自由度が低いと言われたがライトニングさんはウケたとか書く意味もない雑なネガキャンと、あっさい擁護をライターが取って付けたように書いてるが、FF13のプロデューサーとFF11の現役プロデューサーがまさにこの記事にいることに気づいてないのでは。

この6人だけではない。スクエニだけでも堀井雄二タイトーの石井光一社長、スクエニの松田洋祐社長(それぞれ2016年当時)にインタビューしている。
他にも掲載されている各社のプロデューサーだの社長だの会長だの信じられないほど豪華な人間の生の発言が、粗雑に切り取られて掲載されている。
本書では彼らの貴重なインタビューはそのまま載せるのではなく、週刊誌に載ってる関係者のコメントみたいに編集されたうえで、あくまで記事を書く記者の見解として出力されている。だから、本書の地の文に書いてあることがインタビューで聞いた話なのか、ライターが付け足した話なのか、識別はできない。
書いてる側が、生の声の価値をまるで理解してない。だから書誌情報にも目次にも書いてないのだろう。
スクウェアは特に酷いと思ったが他も大差はない…堀井雄二のインタビューが載っているページであれば見出しに「日本のRPGの原点、『ドラゴンクエスト』」と堂々と書いてるが、いくらなんでも堀井氏がそのように言ったとは考えにくいし。コーエーテクモテクモは年表で載せてるだけ、コナミは載せてハドソンは載せないとか、セガならアトラスが載ってないのに『ぷよぷよ』だけ載ってるとか、基準もメチャクチャ。

ガンホーの森下社長がRO運営やるだけためにオンセールって会社を借金して引き受けてガンホーに作り替えた経緯とか、レベルファイブの日野社長の苦労とか、ちゃんと社史になってて興味深い記事もあったんだけど、こんな文献に載って埋もれてるのが非常にもったいない。ガンホーの歴史に興味ある人はこの本を読んでみてほしい、という紹介だけはしておきたい。
任天堂セガは中の人にインタビューできなかったようで、過去のインタビューなどから構成しているが、断られたのかもな…
当然、任天堂についてもインタビューの有無と関係なく極めて雑な認識で書いてあるのは気づいたが、詳細は暇な人が確かめてください。

河津秋敏から見たFF1当時の坂口博信の様子、とても興味深いのだが、こんな文献に載ってしまっているのが残念でしかない。
雑なゲーム語りに対して、しばしば「関係者が現役なんだから直接取材してみようと思わなかったのか?」という批判があるが、本書はそれに対する反証だ。根本的にダメなものは取材とか関係なくダメなのだ。勘弁していただきたい。

こんな質の低い参考文献で知りたくなかったが、坂口博信はFF2のことをFF1開発中にも既に話していたようだった。
この中の誰が聞いた話なのかもわからないが…

ファイナルの意味

ここが前述の寺田憲史の著書とつながる。

>だが後日、坂口からタイトルの由来を聞いて、驚いた。
>『ファイナルファンタジー』とは、まさにファイナルで、一本だけの制作しか考えていない、ということだったのだ。
>「おいおい、ちょっと待てよ。発売して売れなかった、っていうのならともかく、これから作るっていうのに、一本だけって決めることないだろ」と、ぼく。
寺田憲史『ルーカスを超える』159ページ)

このように寺田氏が言及しているのと異なるようだが、『ファイナルファンタジー』の由来は、坂口、河津のそれぞれが複数のインタビューで語っているところによると、略称をアルファベット二文字の「FF」にしたかったという理由でつけられたというものだ。
別に会社がヤバかったからつけたタイトルではない、らしい。会社がヤバかったこと自体は事実として。
だが、寺田氏が聞いた話も間違いではないのかもしれない。『キングスナイト』、『とびだせ大作戦』、『ハイウェイスター』の3作の手ごたえが悪く、坂口博信は自信を失いかけていた話は『電脳のサムライたち4』でも語っているし、仮に売れて会社が続いたとしても、続編を作る気はないタイトルだったのかも。あるいは、本当の理由とは別に寺田氏の前で弱気を見せたか。
何かの終わりのような気分がファイナルに乗っていなかったとは、言い切れない。近年のインタビューなどでは、そのような気持ちがあったことに否定的ではあるが。

寺田氏は、「じゃ、少なくとも、シリーズ化を目指すつもりで作ろう。」と提案をしたという。
このエピソードは寺田氏の著書にしか出てこないので、正確な記憶かどうかはわからない。事実だとしても、寺田氏の提案が坂口博信の気分にどの程度影響したのかも定かでない。ただ、FF1の開発途中で続編を考え始めるくらいに、内容には自信を持っていたのだろうということは言える気がする。
坂口博信が取締役(たぶん斎藤氏)に怒鳴り込んで、会社の危機の中で初回出荷数40万本を押し切った話も、内容に確かな自信があったからだ。そして見事に売り切ったのだった。

なぜ半年で作れたのか

なぜこれほどのゲームが短期間で開発できたのか?
わからん…
「作れる実力が坂口博信のチームにあった」以外の説明ができない。力技だ。

異常なのは河津秋敏石井浩一の二人が入ってきたことだった。結果論になるが、この二人の実力が抜きん出ていたことはFF1の実績からも、その後の歴史からもはっきりしている。
もちろんグラフィック、プログラム、音楽と、各分野の実力者は既にスクウェアに集まっていたのは確かだ。しかし、いよいよ会社の危機というタイミングで、コンピューターゲーム開発の経験もなくスクウェアのこともよく知らないのに即戦力レベルの新人二人が、一体どうしてここにやってきたのか、全くわからない。この謎の新人たちの実力をいち早く見抜いて、プロジェクトの中心に引っ張ってきたのこそ坂口博信だ。
これが坂口の功績でなかったら何だというのだ。
そして別チームを率いていた田中弘道の合流。元はと言えば坂口田中の二人とも、スクウェア最初期の適当なバイト募集で集められた人間の生き残りだった。
FF1には、こうしてバイトから始まった強力なプランナーが4人もいて、会社の危機に立ち向かおうとしていた。
少人数で始まったはずのチームは、結構大きなプロジェクトに化けていた。戦力を集中することで、大作を半年で作れる力はスクウェアにあった。

『電脳のサムライたち4 ゲーム創世記 神クリエイターたちのゲーム創作秘話4』で鈴木尚は当時の様子を振り返っている。チームを細分化して作品数を増やした、粗製濫造をしたのだと。これでさらに状況は悪化したと。(86年だけで13本、としているが、外注作もあったり87年と混ざってるっぽい、ちょっと怪しい数字ではあるが)
それで経営不振から家賃の安い御徒町に移転して、社員も半分くらいに辞めてもらったという危機的状況を振り返っている。本当にやばかったのだ。
ただ、一つ思うのは、この粗製濫造体制こそがスクウェアの経験値として蓄積されたものではないかということだ。少し開発体制を見直したら、一気にゲームのクオリティが上がり、かつ高速で開発できる体制自体は残せたのではないかと…

※もっとも同期のライバルである『桃太郎伝説』はドラクエ3が遅れそうなのを察知してから作り始めて11月に発売しているので、開発期間はFF1よりもっと短い予感。しかもこちらのプランナーもゲーム開発は未経験だった。
ドラクエより短期間でのRPG開発、できるところにはできたようである。

直接聞いてはどうなのか

FF1の開発史についてわかってるのはこのくらいだと思う。FFの35周年だったり、FF11の20周年だったりでインタビューが増えたことで、以前より細かいことがわかるようになった。
とにかく、開発期間は短かったこと、そして後にレジェンドになるものすごい人材がどんどん集まっていたこと。それをまとめあげることはできたと思う。

この記事を書いていて思ったのは、かなりの当事者がtwitterとかFF14とかにいるんだから聞いてみちゃどうなんだということである。
もちろん私は日経のライターでもないし、フォローもしてない私の質問に答えてくれるかという問題もあるんだけど、とりあえずダメ元で取材してみようと試みることは、しなかった。
それに多くのインタビューをあたった結果、いくらか当事者の記憶が不正確と思われる発言もあったが、重大な齟齬は少ない、信ぴょう性が高いと判断するだけの整合性は取れていると考える。

むしろ問題なのは、当事者も入社時期や配属先の少しの差で知らない事情がある、記憶違い以前にそもそも当事者間でも共有されていない情報がかなりあると思われたことだ。
そして、この当事者を全員集めて同時にインタビューするのは、もはや誰にもできないだろう。
それで、結局バラバラの情報源をつなぎ合わせて、このような記事とすることを選びました。

そんなわけで、これは取材などに基づいた記事ではない。本記事はあくまで「そのへんで見つかった情報」のみから再構成したものです。
もちろん私もスクウェア・エニックス社とは何の関係もない部外者です。
これ読んで何か間違いや欠けに気づかれたら、こっそり教えて下さい…

敬称をどうすればいいか迷って、中途半端な表記になっていることはご了承ください。

次の記事へ…

長い記事になってしまったが、実のところこれはFFの歴史を追う上での予備知識でしかない。ようやく次の記事へ行ける…

ファイナルファンタジー』には今やレジェンドと呼ばれる有名ゲームクリエイターが何人も集まっていた。だが、まだこの当時は名前も知られていなかった。坂口博信堀井雄二と並び立つクリエイターとして名を知られるようになるのは、もっと後。
さらに河津・石井・田中といった強烈な面々がFF1に関わっていたことも、90年代はあまりはっきり知られていなかったと思う。

52万本売れたというファイナルファンタジー、まだ当時のファミコンRPGのナンバーツーですらなかった。そのクリエイターの名も、ほとんど知られていなかった。
ここから躍進してドラゴンクエストと並ぶまでの背景、まだ探っていく必要がある。
それは「ファミコンRPGブーム」のディテール感にもつながる話なのだ。