神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

ジャンプとキャラゲーの関わり、または関わらなさ

何度か本ブログでも名前を出してきた漫画編集者の鳥嶋和彦氏。週刊少年ジャンプに配属され、鳥山明の初代担当編集者となり、Vジャンプ初代編集長を経てジャンプ編集長などを務めた人物だ。
大変なゲーム好きでも知られ、近年もエルデンリングを295時間かけてクリアしたと話していたが、過去からゲーム業界での話題も多い。

PS2ドラゴンボールZ発売延期事件

鳥嶋氏の強力なエピソードをひとつ紹介する。
PS2の『ドラゴンボールZ』(2003)。本作は途中までジャンプ編集部を通さずに開発が進んでいた。
もちろん後で報告するつもりだったのだが、その前に編集部に先に察知され、バンダイの内山さんと鵜ノ澤さんは2002年に集英社に呼び出される。そこで待っていたのがジャンプ編集長の任を終えて、もっと偉い部長になっていた鳥嶋さん。
開発途中のドラゴンボールZの映像を見せたが、鳥嶋さんの納得する出来ではなく、そのまま発売することは許可されなかった。

数ヵ月後、発売延期して必死で作り直したものは鳥嶋さんもすぐに納得。延期したことで発売タイミングも良くなり、PS2『ドラゴンボールZ』は記録的なヒットとなった。

この鳥嶋和彦の恐ろしいエピソードは2019年の講演で語られたもので、以下の3つの記事に詳しくレポートが残っている。読むには会員登録&かなりタチの悪いメルマガ登録必須な上にかなり長いが…興味があれば読んでみるといい。

前編では、若い頃の鳥嶋さんの決めたロイヤリティーが現在でも業界で使われているという話が出てくる。先の記事で鳥嶋さんがアニメ化のシステムを作ったらしいという話を紹介したが、ゲームについてもかなりやってるらしい。

問題のPS2ドラゴンボールZの話は中編から。

また、この件については、昨年のラジオに内山さんが来た際にもほぼ同じことを言っていた。

私はラジオの文字起こしなどしてなかったので記憶で話すが、講演では言っていない内容も少しあったようだ。
記事中にちょっと出てきた『ドラゴンボールZ』の前のPSの北斗の拳、すなわち『北斗の拳 世紀末救世主伝説』(2000)だが、こちらはジャンプ編集部を通していたようだ。だが、その際に東映アニメーションとのやり取りが疎かになっていて問題になったようだ。
反動でドラゴンボールZのほうは最初から東映に持っていき、今度は編集部のほうが後回しになった、ということらしい。
こうした経緯があったので「東映アニメさんに話を持っていくときは、同時に『ジャンプ』編集部さんにも同じものを持っていく」と講演で言ってるわけだ。両方同時に攻めなければダメだったんだ。

しかし今回注視したいのは北斗の拳のほうだ。
PSの北斗の拳、どうやら鳥嶋編集長時代(1996~2001)の案件だったようだ。北斗の拳は連載終了して久しかったが、まだジャンプ編集部の預かりだったか。
北斗の担当者じゃない鳥嶋さんが直接確認をしたかは定かでないが、世紀末シアターリアルタイムあべしシステムは、どうも当時のジャンプ編集部が通したものだった。
そりゃそうか。ドラゴンボールZで問題になったのは、開発中のどの段階で編集部に持って行って、どの程度の内容なら編集部が許せるかという話であって、どこかで編集部の目に触れるのは当然だった。
鳥嶋和彦なら特にドラゴンボールはちゃんとチェックするだろう。開発中のドラゴンボールZは本当に悪かったのかもしれんなあと思う。
では北斗の拳は…鳥嶋さんの担当ではないが、決して軽く扱っている作品ではないと思うが。鳥嶋和彦は世紀末シアターを見たのか、そして許したのだろうか。
それは、許したんだろう。たぶん。

つまり、今回の本当の疑問。鳥嶋和彦は北斗の拳5を見たんかということだ。
見てないと思う。

鳥嶋和彦とファミコン

北斗の拳5に至る前に、鳥嶋和彦氏の過去の話をする。

ジャンプと無関係に、もともとゲームが好きだった鳥嶋和彦、85年に堀井雄二たちゲーム好きのライターを集め「ファミコン神拳」を開始、ジャンプ誌上でファミコンを本格的に扱いはじめた。
この時点で、ジャンプのファミコン担当は鳥嶋和彦だった。

この2018年の「ゲーム ドット絵の匠 ピクセルアートのプロフェッショナルたち」という文献に、なんかドット絵の担当ではない元バンダイの橋本真司氏(橋本名人)のインタビューも載っている。
ここで橋本さんは鳥嶋氏の話をしている。鳥嶋さんは堀井さんたちを伴ってバンダイに直接出向いてきて、マッスルタッグマッチの開発現場を見にきたのだと。そこで当時バンダイにいた橋本真司とも面識を持つ。

橋本さんにしてみれば、バンダイはアニメ会社経由で商品化権を得る立場、原作サイドとは遠い位置にあり、当時は版権元の人間とは直接会えるようなことはなく、驚かされたのだと。
しかし橋本さんにとってはありがたい状況でもあり、その後は鳥嶋さんと編集部で毎週のように会っていた時期もあるという。
特にファミコンジャンプの開発に際しては、他の作家との交渉も鳥嶋さんが橋本さんと二人で出向いたこともあったとしている。

橋本氏の言い方からすると、たぶん他の出版社の担当とはめったに会えなかったのだろう。
しかも、鳥嶋氏は漫画を担当していない作品についても関わっていた。担当者じゃないのにジャンプ編集部の名を背負ってキン肉マンマッスルタッグマッチを見にきて、また聖闘士星矢でもファミコン神拳メンバーに車田先生の取材をさせていた。
ドラゴンボールだとゲームの絵柄に鳥嶋さんが意見を出したこともあったようだ。(ラジオで言ってたことだと、ドラゴンボールをRPG寄りの内容にするよう注文も出していたようである)

このバンダイと鳥嶋和彦の関係、ファミコン神拳の担当として記事を盛り上げたいというのもあるだろうが、どう見ても鳥嶋さんの素のゲーム好きのほうが影響しているな…
そして、鳥嶋和彦はファミコンを担当していたが、専用の担当部署があったということは、どうやらない。

前回の記事で触れたことに戻る。

アニメについては、鳥嶋氏が自分の担当作品をアニメにするためにシステムから作ることを強いられた。専用の部署がなかったからだ。
そのアニメからの派生作であるゲームにも、当然そのような部署があったはずがない。鳥嶋和彦が個人的に得意なファミコンについて自然に仕事を引き受けていた状態だったと考えられる。
そして、特にバンダイの橋本さんとは距離が近かった。

だが、他は?
テクモやカプコン、東映動画、東宝など他社のジャンプゲーは、鳥嶋さんはチェックしてたのだろうか?
ここは、よくわかんない。ファミコン神拳でも北斗の拳は扱っていたが、あまり後年に話題にされていないようだった。

元ファミマガ編集長の山本直人氏が書いた『超実録裏話 ファミマガ』という本だと、キャラゲーは掲載ページ数や使える画像に厳しいルールが課せられている、という話が書いてある。これはジャンプに限った話ではないようなのだが、鳥嶋氏の話題も何度か出てきた。
どうやらこの時代、ジャンプの担当として各ゲーム誌とやりとりしていたのも鳥嶋氏だったようだ。

別に偉い人でもなんでもない若き日の鳥嶋個人が、担当者としてやれる範囲で動いていた、そういう状況だとすると…
ドラゴンボールや、あるいは仲の良い橋本さんがいるバンダイのゲームなら鳥嶋さんが管轄できるし、それなりのチェックもしていたようだが。
他は非常に怪しいと言わざるを得ない。アニメの監修ですら担当者による差異があったのではないかというのを指摘したが、ましてそのゲーム版などとなると…

ファミコン神拳が終わってから

ファミコンもピークを越えつつあった89年ごろ、鳥嶋氏は副編集長になるため、ドラゴンボールの担当を2代目の近藤裕に交替する。(情報源:ラジオ。交替はラディッツからという話なので88年末ということになるが、どうもラジオで言ってたのと時期が少しずれてるようだ)
この副編集長というのはかなり忙しい仕事らしいので、直接取材に行く機会は減っただろうと想像するが。
肩書きは偉くなったので、もしかしたらゲーム誌とのかかわり方も変わってきたかもしれない。

ファミコン神拳も近い時期に終わり、「ファミコン怪盗 芸魔団」という別のシリーズに移行する。
調べてもあまり詳しくわからなかったのだが、どうもドラクエなど堀井雄二関連ゲームや、ジャンプゲーも扱ってたらしい?
どこのメーカーでも扱うというコーナーではなかったようだ。

いっぽうで鳥嶋和彦はこの時期にブイジャンプ(1990)の立ち上げを始める。ジャンプのゲーム部門は鳥嶋和彦ごとVジャンプに機能を移しつつあった。
その関連で坂口博信と出会ったらしい。その頃のジャンプ編集部のゲーム観を伝える鳥嶋さんの談話がある。

>その後も坂口が『FFⅣ』をジャンプ編集部にプレゼンしに来たら、編集部の連中に「何だ、『ドラクエ』じゃないのか」と立ち去られたという“事件”があって、坂口は深く傷ついていたからね(笑)。

もともと鳥嶋さんはFF4を扱う気はなかった。ジャンプで扱うからには開発のもっと最初からしっかり組みたいという鳥嶋和彦の論理がある。
だがそんなことは関係なく、ジャンプ編集部はFFなど知らぬ!通じぬ!!という状況であった。芸魔団も担当のライター(三条陸など)がゲームに詳しかっただけで、編集部全体が詳しいわけではない。

もう既に超有名RPGだったファイナルファンタジーの偉い人が自分から乗り込んできたんやぞ。まともにゲーム感があるなら少しくらい載せてやれよと鳥嶋を説得すべきなのだが、それだけの知識が編集部には欠如していた。
それも無理からぬことだろうか。当時の漫画編集部の人間がゲームをわかる必要はどうやらなかった。ファミコンがわかる鳥嶋みたいなやつが少しいればいいだけのこと。ファイナルファンタジーなどジャンプと何も関係ないし、知らん。

そんな編集部において、Vジャンプ立ち上げメンバーである故・高橋俊昌さんもゲーム好きの側だったから鳥嶋さんが指名して連れて行った人らしい。

ということは、ゲームがわかる人間は誰が残ったんだろう。
いないってこともないかもしれないけど、ジャンプにファミコン担当部署は当初からこの頃に至っても存在せず、しかも鳥嶋和彦がまだいる92年あたりからVジャンプへの機能移転も始まっており、既に手薄になっていた疑惑が強い。

『北斗の拳5』への道

鳥嶋和彦がVジャンプを増刊号で作っていた1992年。スーパーファミコンの普及が進み、前年に発売したファイナルファンタジー4は既に大ヒット、ドラゴンクエスト5の発売も迫り、いよいよRPGの波もファミコンから世代交代しようとしていた。
だが北斗の拳のゲームはまだ出ていた!

かつて「あべし」を集めるゲームとして知られたファミコン『北斗の拳』はラオウまで。「ひでぶ」が出るようになった『北斗の拳2』は修羅の国の入り口までをゲーム化した。
ここで終わらず、アニメ・原作終了後の1989年に発売した『北斗の拳3』は時代の流れに合わせRPGにジャンルを変更、第1話から修羅の国のラストまでを描いた。
これが上手く行ったのか知らないが、91年には『北斗の拳4』が登場。原作終了後のエピソードのRPGで、シナリオに起用されたのがアニメ版北斗の拳の脚本家の戸田博史だった。
(武論尊がストーリー原案を書いて、自ら戸田博史に依頼した旨が説明書に書いてあるらしい。ふたりともゲームやっており、仲も良かったようだ)

一連の北斗の拳シリーズ、いずれも販売は東映動画、開発はショウエイシステムという会社だった。
このショウエイシステム、東映動画のゲームに多数関わっているが、他社の販売だと『摩訶摩訶』が有名だ。

※実は摩訶摩訶がショウエイシステムだという話、今回いろいろ調べて明確なソースが確認できなかったのだが…
作曲の知久光康とシナリオの戸田博史の組み合せが一致しており、北斗の拳4からの流れで開発されたのはまず間違いないでしょう。
後継作とみられる『イデアの日』は戸田博史は抜けたようだが、こちらは発売がショウエイシステムになっている。

北斗の拳4を経て、戸田博史とショウエイシステムはまだ仕事を続けた。1992年、摩訶摩訶と同年のうちに『北斗の拳5』が登場する。

舞台は核戦争後の2001年!

魔皇帝って人が現れて突然全世界に侵攻を開始。各地で拳士たちが抵抗を始めたが苦戦を強いられる。

ケンシロウは転がってきた岩につぶされ死んだ

※このゲーム、よくわからん画面モードを使っており、レトロフリークだと移動画面のスクショが横長に出力される。よくわからないのでそのままにしてみる。

本作は原作のキャラクターのみを使ったパラレルワールドで展開する、完全ゲームオリジナルストーリー。
参戦作品が北斗の拳しかないスパロボみたいなもんだが、さらにシナリオの質もかなり悪い。次々出てくる原作キャラクターたち、ある者はキャラ崩壊しある者は雑に処分されていく。

「わあーはっはっはー(笑)」という音声つきのバカ笑いと共に魔皇帝が出現、ケンシロウとユリアがすごい勢いで死ぬ冒頭の超スピード、これは確かに面白いというべきだ。だが間違った面白さだった
ペペロペロとか言い出したのを見たらジャンプ編集部は止めろ。
担当が止めなくても鳥嶋が止めろ。おめえがやらなきゃ誰がやる!

誰も見ていなかったのだろう。ドラクエ5の発売迫ってるのに北斗の拳5の話なんてしたくないだろうし
90年代前半、ジャンプ編集部のメディアミックスはだいぶ危ない状態だった。現に北斗の拳5があるんだから、そうだとしか言いようがない。

なぜアレなキャラゲーが生まれるのか?
ひとつは、もちろんメーカーがアレだからだ。ちゃんとした会社からは、ちゃんとしたキャラゲーが出ていることはご存じであろう。なおバンダイはまだちゃんとしてるほうです。
だがもう一つの理由、版権サイドがゲームのことを全く知らないという事例がどうも存在するのではないかというのを、北斗の拳が我々に伝えているのだ。
漫画好きですらない編集者が多くいた80年代の漫画誌で、ファミコン初期から見てきた筋金入りのゲーム好きというのは、かなり珍しい存在だったのではないかと。
これはジャンプ編集部に限った話でもないだろう。
コロコロはゲームがわかる人がいたようだが、他の版権元は、サンデー、マガジン、東映(実写)、ソニー、森永製菓…

鳥嶋編集長の帰還

Vジャンプ立ち上げの時期、正確な時期不明だが鳥嶋氏は編集長代理という異例の役職に昇格。しかし編集長になれず、93年には週刊少年ジャンプ編集部を離れ、増刊号だったVジャンプを正式な雑誌として立ち上げ、創刊編集長となる、という経緯があるそうだ。
92年にFF5を本誌に掲載したときなど、鳥嶋氏はまだジャンプのゲーム記事に関わっていたようだが、Vジャンプはできつつあり、ジャンプ本誌が率先してゲーム記事を扱うという雰囲気でもなくなってきていたのかも。

しかしVジャンプを成功させた鳥嶋和彦は96年に週刊少年ジャンプ編集部に復帰させられ、編集長にされてしまう。上からの命令であり、かなり嫌がっていたらしい。
で、鳥嶋さんが戻ってくるまでに出たのが、SFC最終作の北斗の拳7と、サターンの北斗の拳か…
やったことないのでコメントは控える。

96年に鳥嶋氏が権力と共に帰還して以降、アレなゲームが減ったかどうかは知らん。
そもそも鳥嶋和彦にしろファミコンジャンプを通した側の人間であり、その監修は過信してはならない。
あれグラフィックはまあまあだけど、ストーリー面では北斗の拳5とどっこいだと思うぞ。
ゲームシステムに至っては平凡なRPGの北斗の拳5のほうがマシにさえ思える。
『ドラゴンボールZ』の話からも、鳥嶋さんの監修はグラフィック、演出といった外観部分を重視している様子だ。たとえば強襲サイヤ人の序盤で悟空が自殺したり超サイヤ伝説でピッコロがデンデを吸収したりといったストーリー部分の歪みはジャンプ編集部的にはどうなんです。あれ許していいのか。
というと、ドラゴンボールはIF展開に異様に寛容なので、このくらいはずっと許されてる気もしたが。

東映動画のゲームの謎

ちょっと余談だが、東映動画(現:東映アニメーション)のファミコン部門について。
なんとなく東映は販売をしただけなんじゃないかと思ってたが、東映側にもゲームに関わる人間は存在したらしい。その1人として判明しているのがなんと森下孝三だ。いろいろ細かい仕事をやった中に、特にゲーム詳しいわけでもないのにファミコンの『SWAT』というゲームの企画に関わったと、著書「東映アニメーション演出家40年奮闘史―アニメ『ドラゴンボールZ』『聖闘士星矢』『トランスフォーマー』を手がけた男」にちらっと書いてあった。

このSWATもショウエイシステムなのだが、どうもキャラクターデザインの沖一と東映動画以外関わってなく、いわゆる版権ものではないオリジナル作品のようだ。なんだこれ?
森下さん、聖闘士星矢に全力投球してる裏でこれをやってたらしいが…東映動画のファミコン進出の事情、何かご存じの方がいれば教えてください。

橋本名人のその後

ファミコンジャンプなど多数のバンダイのゲームに参加した橋本真司は、1991年にバンダイから独立し、コブラチームという会社を立ち上げた。SFCの『ジョジョの奇妙な冒険』で有名な会社で、他にもジャンプ原作ゲームなどを何本か手掛けたらしい。
その後コブラチームは何があったのかスクウェアの子会社になり、ソリッドと改名して元の名前は埋もれていった。
橋本氏はそのままスクウェアで役員となって、スクウェア・エニックスに移行して定年まで勤めあげた。
鳥嶋人脈にいた人物が、どういうめぐりあわせか坂口博信と合流して、そしてめちゃくちゃ出世していたのである。本人によればファミコンジャンプもキングダムハーツも同じ「オールスターズゲーム」なのだという。

この橋本氏が次の記事に関わってきたりする…
次回、97年の噂を追ってみようと思う。