神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

ウィザードリィの歴史・浅瀬編

ウィザードリィ。それはコンピューターRPGの歴史における重要なタイトルだ。1981年に発売したそのゲームは80年代から90年代前半を通して広くプレイされ、多数のゲーム開発者に多大な影響を与えた。
堀井雄二坂口博信も初期にその面白さにハマったプレイヤーで、ドラゴンクエストファイナルファンタジーウィザードリィがなければ生まれなかったというくらいの存在。

たとえば、ドラクエ・FFの歴史を考えてるときにウィザードリィの名前が出てきたら、このぐらいの説明で十分でしょう。

超簡易年表

1974年 『Dungeons & Dragons』が登場する。

1981年 Apple2『Wizardry』発売。すぐにベストセラーに。

1982年 Wizardryは既に日本に輸入されていた。

1983年 WizardryがLogin誌上で少なくとも2回、大きな記事で紹介される。

(1983年10月末ごろ 堀井雄二が北米でWizardryと出会い買って帰る)

1985年 11月 日本語PCにウィザードリィが移植される。

1986年 5月 ファミコンドラゴンクエスト』一作目が発売。かなりのヒット作となる。

1987年 12月 ファミコン版『ウィザードリィ』発売。これもヒット作となる。

1988年 2月 ファミコンドラゴンクエストIII』発売。出荷数380万本の社会現象レベルのヒットとなる。

Wizardryの誕生まで

RPGの歴史をかなり省略して説明するが、1974年に北米でロールプレイングゲームテーブルトークRPGTRPG)『ダンジョン&ドラゴンズ』が登場し、大人気になった。(TRPGという呼び方はコンピュータRPGの登場後に区別のためについたものだった)

これの影響を受けて、英語圏の70年代の黎明期のコンピューターゲーム界にもRPGの波が生まれる。
1981年に発売された『Wizardry』も、こうした「TRPGに起因して作られたのコンピュータRPG」のひとつだった。本作は主にTRPGの戦闘部分を中心に模倣、再構成し、一本のコンピューターゲームとしてうまく落とし込んだものだったと言える。

ここまで当然みんな知っていたことだ。
もちろん、「うまく落とし込んだ」と簡単に言う部分こそが簡単ではなかっただろうし、当時のコンピューターの性能ではTRPGのルールを完全再現はできなかったのだが、とにかくウィザードリィは無から生まれたRPGではない。

実は1975年ごろにはPLATOという端末上でもっと古いコンピューターRPGが登場しているのだが、これについては本記事では後で書きますので、名前を聞いたことがある方も今は忘れてください。

日本輸入初期

1981年に発売してすぐにヒットしたというWizardry、1982年には早くも日本に輸入されている。
『ログイン』1982年創刊第3号、東京のPCゲームランキングに既に載っていたことは確認した。
どうやらパソコンショップをやっていたスタークラフトという会社が82年の時点で日本語訳のマニュアルをつけて売っていたらしい。
(このマニュアルの実在はまず間違いないが、私はネット上でも見たことがない)

本格的に日本語でウィザードリィが紹介されたのは1983年以降と思われる。
『ログイン』誌の例だと、1983年6月号はRPGを含むゲームソフトの特集記事があり、Wizardryも紹介した。
7月号ではWizardry発売元サーテック社を取材。開発経緯が詳しく明かされた。
11月号では安田均によるロールプレイングゲーム特集の記事を掲載。この頃はまだTRPGという言葉がなく、この11月号の記事は『ダンジョン&ドラゴンズ』などの本来のロールプレイングゲームから紹介し、WizardryUltimaなどのコンピュータゲームも紹介するものだった。

こうした初期の経緯があるため、WizardryTRPGをもとにしたゲームであることは日本でも誤解なく伝わっていた。

同じ1983年、10月末ごろに堀井雄二鳥嶋和彦が北米のApple Festというイベントを取材、ウィザードリィを買って帰国している。
これにログインの編集者だった河野真太郎が同行したとされる。堀井さんたちもいきなり現地でウィザードリィを知ったわけではなく、ログイン方面から知識を得ていた可能性が高い。
その後、宮岡寛ら少年ジャンプの『ファミコン神拳』関係者にウィザードリィが布教されていったことがわかっている。北米まで行かなくてもスタークラフトで買えたのである。

かくして、1983年ごろのWizardryの国内知名度は、ログインなどを読んでいるマイコンユーザーの中でかなり上がっていたと考えられる。

Apple2を買えたのか?

ただし、ログインを読んで知ってる層も全員がプレイできたわけではない。当時のWizardryにはApple2版しか存在しなかった。なかには『ポイボス』のように、Wizardryの現物がなく、ログインの記事を参考に開発された国産RPGもあったという。

堀井雄二周辺の証言を引いてくると、ちょうどその頃の秋葉原でApple2の互換機が13万8000円くらいで出回っていたらしい。ジャンプ関係者は11月以降にこれを買った様子なのだが、この1983年に買えた互換機の詳細は不明である…

こちらで紹介されているJapple、または「秋葉原クローン」と呼ばれている機種がそれっぽいが…値段や年代が一致してるかは謎。
とりあえず今回は13万8000円という価格(2016年版『ファミコン神拳』に書いてあった)を信じておく。

当時のパソコンの値段がどんなもんかについての参考記事:

この頃、個人用なら10万円を切るパソコンもあって、ゲーム機寄りのパソコンならさらに安かった。

日本におけるApple2はどういう位置づけだったのか、ちょっとまだわかりかねている。
Apple2は最初からジョイスティックに対応しており、当初からゲーム用途を想定していたのだが、実用ソフトにもVisicalcという画期的な表計算ソフトが登場し、本国ではそれがものすごくヒットしていたらしい。
だが日本では、これをビジネスに役立てていた人がどのくらいいたかは知らない…
互換機では日本語も対応してないだろう(正規品には日本語対応モデルもあったそうだ)。ホビー用に主眼を置くとして、1983年の日本では13万円でも出せる人間は限られていたと思う。
互換機が売ってたのも秋葉原とか、一部の電気街だけだろうし。やはりApple2は高根の花であったのだろうと、今回はそう考えておく。

例外はあった。大学生だった坂口博信は部品を集めてApple2を自作したのだが、これが2万円くらいで済んだようだ(昨年のラジオで言ってた)。
坂口博信にこんなことができたのは、大学で出会った田中弘道が高校時代にアマチュア無線で情報を得ていたためだ。レアケースだと思うが…この価格でできたならもはやファミコンがライバルだったと言える。

国産RPGの登場と日本版ウィザードリィ発売

そんなわけで、PC-88などで国産RPGが登場してきた後も、Apple2でウィザードリィをプレイできた人間はまだ限られていたと考えられる。

ここで話がそれるが、先に記事に書いたテトリス・エフェクトという本に、BPSの『ザ・ブラックオニキス』の開発秘話が載っていた(1984年1月発売?本書には83年の末の発売のような書き方がしてある)。

ブラックオニキス』は初期の国産RPGの代表作だが、作者のヘンク・ロジャースはオランダ出身で、いろいろあって日本に移住していた人物だ。彼はアメリカから来たのだが、WizardryやTemple of Apshaiなどの有名コンピュータRPGとは日本で出会ったようだ。
ハワイ大学でD&Dを遊んでいたヘンクは、当時のコンピュータRPGはプレイヤーがTRPGをある程度知っている前提で作られていると認識していた。D&Dプレイヤーの少なかった日本ではそうは行かないため、ブラックオニキスはキャラクター作成などを簡易なものにしたそうである。
のちの『ドラゴンクエスト』もRPGを知らない人向けに内容をかなり易しくしたものだが、同じことは既にやられていたのだ。
このブラックオニキスは発売してしばらくは売れなかったそうだが、やがてヘンクの努力で雑誌に取り上げてもらったのが上手くいってヒット作として名を残した。
これはTRPGの普及が遅れた日本での事例のひとつとして、ここで紹介する。

日本の国産PC版ウィザードリィは1985年の終わり近くになって登場した。これも十分に売れたようで、評価も高かった。
国産パソコン版(機種不明だが合計か?)のウィザードリィ1は12万本。2と3が各5万本売れたとされている。かなり売れてたようだし、めちゃくちゃ売れたわけでもないようではある。
1986年のファミコン通信の第2号で日本版ウィザードリィを特集しているが、ゲーム内容は高く評価しつつも人気は『ザナドゥ』ほどではないという扱いだった。

ドラクエ登場から

1986年、ドラゴンクエストが発売した。既にアクションRPGが登場していたファミコンにもコマンド型RPGの機運が高まる。
本作のヒットで87年までにファミコンユーザーにRPGはかなり認知され、定着へと向かう。

ドラゴンクエストを作った堀井雄二も、ウィザードリィRPGの面白さを知ったユーザーだった。だがドラクエ1に関して言えば、言うほどウィザードリィの影響は感じられないものである。
ドラクエに参加した堀井雄二中村光一、それに宮岡寛鳥嶋和彦ウィザードリィにハマっていたのだが、ウィザードリィからの直接の影響は限定的だった。
それに、84年以降には国産のRPGも何本も登場している。ドラゴンクエストウィザードリィウルティマだけでなく、いろんなRPGの影響は受けていたようである。

ドラクエ1の要素のうち、ウィザードリィの面影が強いと考えられるのは「経験値を稼いでレベルが上がると強くなる」「戦闘が対面形式のエンカウント型である」の2点だと思うが、いずれもウィザードリィ固有の特徴ではなく、国産作品でも既に採用されていたものだ。

ドラクエはここから3にかけて、多数対多数のパーティ制戦闘、職業システムを導入し、バトル部分ではウィザードリィっぽさを強めていく。

※初期ウルティマにもレベルはあるのだが、これが上がっても成長がまるで実感できないという困ったもので、キャラクターの強化は別の方法でやるゲームだった。

ファミコンの性能が向上

ドラゴンクエストファミコンRPG市場を切り開いたが、その頃のファミコンRPGを制作するのは多くの理由で難しかった。
特にハードの性能面での制約は大きかった。この86年当時のファミコンカセットはセーブができず、容量も少なかった。
ドラクエ1に感銘を受けたという坂口博信に言わせれば、これを見た後でもまだ自分のところでRPGは難しいと考えていたそうだ(昨年のラジオでそう言ってた)。

だが86年の後半あたりからファミコンカセットの性能が急速に向上し、87年にはセーブ機能と、大容量のROMが使えるようになった。

1987年12月に発売したファミコンウィザードリィはセーブ機能つきで2メガの大容量。これは87年後半のファミコンでは最高に近い性能のカセットで、ドラクエ3ファイナルファンタジーとほぼ互角。
ウィザードリィは古いRPGだが、セーブ機能なしではとても移植できない内容だった。ファミコンに移植できるようになるには87年後半まで待つ必要があったのである。

ドラクエ伝説の裏で

1988年2月。とうとう『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』は発売した。
ドラクエ3の商業的インパクトは、それまでのドラクエと比べても段違いだった。本作は初日だけで100万本出荷したと言われている。巨大な行列ができることが発売前から予知され、メディアも押しかけ新聞にも載った。
これまでと規模の違うRPGの普及が起きたのは、このときだ。最終的な販売本数は380万本。日本のファミコンでこれより売れたゲームはスーパーマリオマリオ3だけだ。
ファミコンドラクエのコンビネーションは社会現象となり、メディアでの存在感はスーパーマリオを越えていたと思う。

しかし発売前から多大な期待を寄せられていたドラクエ3の発売は当初87年12月を予定していたが、2ヶ月延期されている。この延期によって生じた空白の年末に、ちょうど入れ替わりで収まったファミコンRPGが2つある。
ウィザードリィファイナルファンタジーだ。

ファイナルファンタジーは、当時経営危機が迫っていたスクウェアの決死の一作であった。開発チームのトップだった坂口博信は上司の取締役に無理を言って初回出荷数40万本という賭けに出る。これが見事成功しスクウェアは救われた。再販もあって最終本数は52万本と言われる。

対するファミコンウィザードリィは30万本とされている。これもかなり売れたほうだと思う。
ファミコンウィザードリィは、FF1と同じ時期にぶつかり、きっちり成功したタイトルだったのだ。

そして、これはつまり。
ファミコンウィザードリィは、実はドラクエブームに乗っかったゲームだった。期待度が限界まで高まっていたドラクエ3までの空白期間。ドラクエ2だけでは満足できないユーザーに、この87年後半のRPGはちょうど当たった。そのひとつがファミコンウィザードリィ

87年後半のRPGの最大のヒット作は、ドラクエ3より先に発売することを意識して制作された10月の『桃太郎伝説』だと思われる(100万本とか言われるが、高橋名人によれば80万本。初回出荷だけでなく年末にも再販していそうなものだが、87年中の販売本数はよくわからず)
他にも87年にはヘラクレスの栄光女神転生、そしてウルティマ3と言った有名作が次々登場し、いずれもシリーズ化している。これらの中で、翌年88年に早々に続編を出したファイナルファンタジーの存在感は強かった。

ウィザードリィも決してこれらに負けてはいなかった。むしろ、「ドラクエ以外のファミコンRPG」という若干ニッチな条件で絞りこむとかなりメジャーな部類のタイトルだったのではないかと見る。
このタイミングで発売できて、ゲームの評価も高かったウィザードリィ。PCのウィザードリィを知っていた層だけに刺さったわけではないはずだ。
というかファミコンの市場規模を考えれば自然なのだが、ファミコン版のほうがPC版よりかなり売れてるのだ

だから私の結論はこうだ。
もともと高かったウィザードリィ知名度だったが、その地力に加えてファミコンブームとドラクエブームに上手く乗った結果一気に急上昇した
Wizardryがなければドラクエはなかったが、ドラクエがなければウィザードリィに今の存在感はなかったかもしれない

これは、断定はできない。
ウィザードリィはもともとの支持層も強い作品だったので、ドラクエブームが背景になかったとしても移植されていた可能性は高いし、本数もある程度出ただろう。
しかし、事実としてこの87年にRPGの存在感を強めていたのは、翌年に発売するドラゴンクエスト3だ。
この視点は、直感に反している。ウィザードリィドラクエより古いゲーム、RPGの祖だと昔から伝えられてきた。
だが、そのイメージを固めたのこそ、実はドラゴンクエスト以降ではなかったのか…

ファミコン版『ウィザードリィ』30万本が盛られていない数字かはわからないが、市場に出回ってる量からするとそんなもんだという気はする。今回は信用しておく。

ファミコンウィザードリィの成功

ファミコン通信1988年17号

遠藤雅伸 VS. 寺田憲史 超人気RPGの2代目戦争の行くえ…』と題し、「年末期待のRPGであるFF2とウィザードリィ2を控えた両者の対談を掲載している。ファミ通でもFFとWIZで完全に同期の人気者でライバル扱いだ。
ウィザードリィ2の開発状況について、「『1』を作っているさいちゅうに、どうせこれ、『2』もやるんだろうってんで、『2』ができるような形にデータをまとめてたんですよ。」と既にある程度動いていたことを明かしている。そして、2と言っても内容を考慮してパソコン版の3(リルガミンの遺産)を先に移植することも決まっていた。
ファミコンウィザードリィII リルガミンの遺産』は実際は翌年発売となったのだが、既に具体的に動いていたことがわかる。
この頃はRPGの先祖としての扱いよりも、純粋に新作としての存在感が強かったように見える。

誤解は広がる

ウィザードリィは3DダンジョンRPGの元祖ではないが、この誤解はかなり広まった。
誤解が広まっていく経緯のひとつは、堀井雄二ファミコン神拳関係者をはじめ、先行作品をよく知らずいきなりウィザードリィから入った人がかなりいたこと。
特に堀井さんはTRPGに詳しくなく、指輪物語も読んだらしいがあまりハマらなかったという。ウィザードリィより古い作品に対する思い入れが非常に薄い。
もっとも堀井さんなど、初期の人たちはウルティマもやっていたので、ウィザードリィが3Dダンジョンの元祖でないことは当然知っており、ここは誤解してないが。ファミコン以降だとこの誤解が多くなる。

TRPGに詳しくないのは堀井さんに限った話ではない。日本では『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の日本語訳が1985年と遅かったのもあり、コンピュータRPGのほうが先に広まったという認識でいいようだ。
もちろん安田均多摩豊のようにTRPG時代からの経緯を見てきた人なら、TRPGだけでなく、ウィザードリィより古いコンピュータRPGの存在も知っていた。だがゲーム誌のライターには先行作品の存在は知らずに進んでいく例も多かったようだ。
ウィザードリィの人気についても、ファミコン版で増えた人口がおそらく最も多かった。ライター側でもファミコンから入ってる人はいたと思う。
ここでPC版ウィザードリィの知識がない人がかなり現れ、断絶が起きている可能性が高い。どこかで元祖RPGだと誤解され、それは確認されることなく広まっていった。

特に『ドラゴンクエストへの道』はかなり売れたらしく、90年以降のウィザードリィ知名度にも影響している可能性が高い。本書などで、ドラゴンクエストウルティマの2Dマップとウィザードリィの戦闘を組み合わせたゲームと簡単に説明されることが多かったのだが、このあたりからウィザードリィはただの元祖RPGではなく、どうも「3DダンジョンRPGの元祖」という誤解へと派生したようなのである。

ウィザードリィより古いRPGの知識

かなり簡単に説明するが、ウィザードリィは最古の3DダンジョンRPGではない。そもそも3Dダンジョンを採用したRPGは市販されたタイトルに限って『Akalabeth(アカラベス)』(1979)と、その後継作の『ウルティマ』(1981)がある。とりあえず今回はウィザードリィの3Dダンジョンはウルティマより後だということだけ覚えておけば十分です。
同じ3Dダンジョンでも、ウィザードリィのダンジョンの設計はウルティマ1とは全然違うのだが、ここでその比較をする意味はないだろう。

そしてウィザードリィは元祖RPGでもない。ウィザードリィウルティマなど1981年までのRPGは「古典」と呼んでいいと私は思ってるが、その古典の中においては、ウィザードリィは後発の部類に入る。
後発であるがゆえに完成度が高くて有名になった、というのがウィザードリィの本当のところだった。

世代別分類

ここまでの動向をまとめるとこう……!

1984年まで(Apple2世代)
日本人がRPGを理解し始めた時代。1981年に登場したWizardryは長いこと現役の作品であると同時に、手が届かない層も多かった。

②1985〜87年ごろ(日本語版世代)
コンピュータRPGが流行ってきている中で、ウィザードリィは最新作ではなかったがいまだ絶大な人気があった。移植も進み、プレイできなかった層にも届くようになる。

③1987〜89年あたり(ファミコン世代)
ファミコンドラクエ人気に乗っかる形で移植されてきたクールな海外製RPGウィザードリィドラクエより不親切だったけど、かなりの人気が出た。

④1990年以降(後から来た世代)
発売数年で早くも伝説となったドラクエの勢いはとどまるところを知らない。そしてファミコンによるさらなるRPG人気の拡大。その元になった元祖RPGとしてのウィザードリィ知名度が上がっていく。
2Dのウルティマに対する3DダンジョンRPGの祖であると誤認が広まっていく。

ウィザードリィの受容のされかたは、数年の間に急激に増えたユーザーの層別に移り変わっており、おおむね上記4タイプに分類されると考えられる。
私が考えた。

上記の②日本語版世代と③ファミコン世代は、ある程度重なっている。ファミコン版を買った推定30万人も、移植待ちをしていた層と、よく知らずいきなりファミコン版から入ったタイプがいたと考える。

実数がわからないのが90年代以降の層。ドラクエ史も宣伝になり、ウィザードリィ外伝などの新作も出ており、ファミコン版をリアルタイムではなく中古で入手するなどした層がかなりいると思うのだが、そのボリュームは把握できない。
実感としては、かなりのボリューム層であると思う。

ウィザードリィってどんなゲーム

順序がデタラメだが、ここでウィザードリィがどんなゲームか説明しよう。

誤解を承知で言うが、かなり簡単に言えばウィザードリィドラクエ3みたいなゲームである。
プレイヤーは街で冒険者を登録し、6人のパーティを組む。敵を倒すと経験値が手に入り、レベルが上がるとパワーアップする。
プレイヤーはレベルを上げながらダンジョンの探索を進める。最初は冒険者が弱いので入口付近しか探索できない。レベルを上げて探索範囲を広げていくわけだ。ダンジョン内に隠されたアイテムがないと進めない場所もある。
一番奥にいるラスボスを倒して帰ればゲームクリア。
その基本的な仕組みは、どれもドラクエと大きく違わない。昔のドラクエウィザードリィを意識したゲームだからだ。

もちろん、ドラクエ3との相違点もたくさんある。

すぐわかるのがマップの違い。2Dマップを持たないウィザードリィには3Dダンジョン以外の世界はない。街もダンジョンもひとつしかない。たった一つの深いダンジョンが、ウィザードリィのマップの全てだ。「街」というものにはマップすら存在せず、画面には宿屋や酒場の名前が文字だけで示される。そのスケール感はドラクエと大きく異なる。

たとえば、死のリスクの大きさ。ウィザードリィは全滅したパーティは街に戻らず、別のパーティが死体を回収しにいく必要がある。死んだキャラクターは復活に失敗することがある。

たとえばストーリー性の薄さ。初期ウィザードリィのストーリーは説明書のみで進行する部分が多く、ゲーム中で描写される風景、セリフはごくわずかである。登場人物も少なく、町人から話を聞くような場面も1作目にはない。

たとえばグラフィックの簡素さ。迷宮はひとつしかないので、変わり映えしない石壁が続く。
プレイヤーキャラクターにはグラフィックすら存在しない。

このような相違点こそがウィザードリィの特徴として、広く宣伝されてきたが。
これらを強調するあまり、「言ってもドラクエ3と同じ部分も多いよ」という基礎部分への言及が浅くなっていった気がする。
それに、これらの中には単にゲームの都合で上手く表現できなかっただけの要素も混ざっている。オリジナルのウィザードリィはモンスターのグラフィックもそれほど力が入っておらず、種類も限られていたが、ファミコンに移植された際にモンスターのドットはかなり力を入れたものに変更された。同時期のFF1と比べても全く見劣りしない。

ストーリーの描写が少ないのも、単に古いゲームだからだ。シリーズが進めばビジュアルもストーリーも強化され、迷宮内でも頭をひねる謎解きや難解なストーリーが展開されるようになった。4や5はゲーム中で語られるストーリーの分量もかなりあり、難解だ。
ウィザードリィの美点とされてるものの中には、現代でも見劣りしない要素もあるが、ただ古いから洗練されていないものも混ざっている。本当にそれ面白い要素だったか?という疑問は少なからず残る。

というわけで。乱暴にまとめるが。
ウィザードリィドラクエに近いゲームである

実際は違うところも多いけど、それを気にするのは浅瀬の段階でやる話ではない。ウィザードリィドラクエの元になったゲームのひとつなので、それなりに似てるのだ。
だからTRPGを知らなくても、既にドラクエ以降のRPGに慣れ親しんで経験値などの基本ルールを知ってるプレイヤーならスッと入っていけたわけである。

ちなみにダメージ計算式などはFF1のほうがウィザードリィに近い。これはFF1がウィザードリィだけでなく、源流のTRPG(特にAD&D)のルールを直接参考にしているためだ。
だが、下流側のウィザードリィに対する意識もかなり強いことはスタッフの発言や一部のアイテムなどから裏付けられる。ある程度自覚的に似せてる部分もあると思う。

高く評価されていたウィザードリィ

ここまでの説明に違和感はあっただろうか、なかっただろうか。
まず多少なりともウィザードリィを知ってる人でないと、こんな記事は読まないはずですね…

いろいろ過去の文献を読んでて気づくのは、ウィザードリィはゲームとしての評価がとても高かったことだ。1981年の発売直後から、後発作品が充実してくる1986年くらいまで、ウィザードリィの評価は一貫して高かった。
現代の文献だと歴史的意義の話ばかり注目されて、ゲームとしての評価は逆にわかりにくくなっていると思いませんか。

安田均が80年代のログインに掲載していた文章をまとめた『幻夢年代記 : コンピュータ・ゲームの世界』という本を今回読んだが、後追い作品と比べてもなかなかウィザードリィを越えるコンピュータRPGが出てこないということが書かれていた。
本当の初期RPGから知っていて、後発のRPGもたくさん見てきた安田均でもその印象だったようだ。ウルティマは1,2,3とシリーズが進むにつれて評価が上がっていったのに対し、ウィザードリィは1作目で既に非常に高い完成度があったということが書いてあった。
このウィザードリィウルティマの2強という状況が、マイト・アンド・マジックなどの後発作品が登場する87年ごろにようやく変わっていった、らしい。

私はこの当時の話が本当かわからないので、後から見てわかる話をするが、ウィザードリィは1981年という古い時代の作品でありながら6年も後のファミコンに移植され、最新作のFF1にも見劣りせず一定のヒットとなってる。このようなゲームは少なくともRPGでは他になかった。同年のファミコンウルティマ3も1983年作品だ。
古典の時代の81年に、6年後にも負けないRPGをいきなり送り出したというのがウィザードリィだった。流行るのも当然。

ウィザードリィを単なる古典作品とみなすことの問題はここにある。87年末にFF1と並ぶ最新作として通用したウィザードリィは、古いから評価されたわけじゃなく、その面白さはファミコンから入ってきた層にも誤解なく評価されていたはずだ。
少々は古さのための不親切さ、洗練されてない要素があったとしてもだ。翌年のFF2と比べてどっちが不親切だったと思うよ?

ウィザードリィは最古のゲームでもなければ売上トップのゲームでもない。
だが評価は一貫して高かった。
普通に成功して熱狂的なファンを得たシリーズというのがウィザードリィの真の姿であり、始祖のRPGという誤解があってもなくても、けっきょくはあまり重要ではなかった、と私は考えている。

だがここからさらに数年、比較対象がFF4とか5とか出てくる時代になってくると、さすがにWizardry#1では古いゲームになっていたことは否めない。
だから比較すべきは、もっとゲーム内容が進化して以降のシリーズなのだが…

ウィザードリィは1の完成度が非常に高かった反動で、2と3は追加シナリオ扱いであり、ゲームシステム部分の調整は少なかった(無変更ではない)。
そしてゲームバランスの評価が高いのは1作目なのだ。2と3はファミコンに移植される際にゲームバランスもかなり変更されている。

いっぽうウィザードリィ4は独特なゲームに変化したためファミコンに移植されることはなく、正統な進化を遂げるのは5以降となる。これがスーパーファミコンにやってくるには、少し時間がかかった。

凋落した印象を残した?

90年以降、ドラクエは勢いを少し落としながらも維持し、FFはどんどん伸びていったのに対し、ファミコンウィザードリィの本数は増えなかった。
データによると、ウィザードリィ2が40万本。ウィザードリィ3が30万本。もはや100万本を越えるようになったFFのライバルではなくなっていた。
でも、結構売れてますね。91年のメタルマックスが8万本とか15万本とからしいので(諸説あり)、普通に人気シリーズでしょう。

ひとつ、私はウィザードリィを推していたメディア側と、それを応援する読者の側が宣伝を誤ったとみている。
90年代前半くらいまでウィザードリィ友の会のような読者投稿コーナーが盛り上がっていたのだが、ドラクエやFFをライバルとして対比し、これら大手に対しウィザードリィはマイナー感のある作品としていたことは当時の文章を読むと伝わってくる。
2大RPGドラクエFFというイメージを、ウィザードリィの記事が書いていたのである。

実際のファミコンウィザードリィはそれなりに強い支持層を持つ、よく売れていたゲームだったはずなのだが、マイナーであること、また不親切なだけの要素に価値を見いだすような布教をユーザー側がやっていって、本当にマイナーになっていった……と私は思ってる。
ドラクエと比べれば1/10なので実際マイナーではあった。クラスでドラクエやってるのが10人いたとすればウィザードリィは1人いるかいないか。
相当売れてるんだけどマイナーで、マイナーだけど普通に売れてる。この感覚は難しいところだ。

だが伸びなかったもっと簡単な理由はあって、単に移植が途絶えていったことだ。
#7はどう見てもSFCに移植できる内容を越えていたのはあるが。#6は相当頑張って移植してるが…
PCのウィザードリィは6以降も非常に高い評価を得ていたのだが(これはPC版に手を出していなかった層からよく誤解されてる)、ゲーム機での本数も考えると全体の売上は大きく落ちていったはず。
遅れに遅れた8が出た頃には、ゲーム機にウィザードリィを移植する会社はなくなっていた。そしてサーテック社も消滅した。

8をPS2あたりに移植してれば、全く売れなかったということはない気もするんだけどな…
日本独自派生のウィザードリィは2000年代前半にはまだかなり売っていて、中には成功したものも確かにあった。

英語圏での受け止め方

はっきりソースがないものの、ぼんやり思ってたことをひとつ。
Wizardryは北米NESにも移植されたが、英語圏においてもハードの普及率を考えたらPCよりNES版のほうが売れてたんじゃないかと。


この憶測は、海外主導で開発されたリメイク版ウィザードリィからも裏付けられる。リメイク版プリーステス、若干いさましいが末弥純のデザインだいぶ残ってる。プログラム部分はApple版のオリジナルをベースにしながらも、ビジュアル部分はNES版をベースにしているのである。

しかも『ウィザードリィのすべて』のベニー松山の解説を、本人のリライトにより収録。『ウィザードリィのすべて』は実は英語訳されており(本人は最近まで知らなかったらしい)、最新版でのベニ松氏の指名に至ったようだ。
(このゲイズハウンドの解説は原書より遠慮した表現になってる。ベニ松氏はGazehoundがトカゲの名前ではないことに気づいてると思うが、グラフィックはバジリスクで出来上がってるので苦心して書いた形跡が見える)

すなわち英語圏でのWizardryの受容のされ方というのは、実は日本版と大きな差がなかったのでは。
D&Dの知名度が高い本国でもApple2やMacintoshIBM-PCを持っていたユーザーはNESほどではなく、元祖RPGというよりNESRPGとしてのヒット作になったのではないかと…
そして、モンスターもこうして日本語版の独自解釈のほうがベースになっていった…

ただ英語版の本数はさっぱりわからない。知ってたら誰か教えて。

ウィザードリィ開発経緯

一番最後に、Wizardryの開発経緯だ。

主な作者はアンドリュー・グリーンバーグとロバート・ウッドヘッドの二人だが、最初に作り始めたのはアンドリューのほうで、その時点ではロバートとの面識はなかった。D&Dのコンピューターゲーム化というアイデアを得た大学生のアンドリューは、BASICでゲームを作り始めた。
それは長い開発期間を経てウルティマに似たゲームになったらしいのだが、その段階で世に出ることなく、ウルティマが先に発売したという(と、かなり古いインタビューで言ってるのだが、これは時期からすると1979年ごろのアカラベスのような気がする)。

そこに既にプログラマーとしての実績があった同じ大学のロバートが後から参加し、プログラムを担当してくれることになった。
そのロバートは、プログラムだけでなく以降のゲームデザインにかなり参加したため、Wizardryはこの二人の共同作品ということにしたそうだ。
どうも、ロバート参加後に大幅に内容が変わったようなのである。

PLATOとロバート・ウッドヘッド

ロバートとアンドリューが知り合った経緯に関わってくるのがPLATOだ。PLATOとは当時北米の大学などで動いていた教育用のコンピューターネットワークなのだが、その中では勝手に作られたゲームがたくさん動いている状況だった。
アンドリューは大学でPLATOの管理をやっており、毎日ゲームを遊びに来る学生を追い払う仕事をやっていた。その中にロバートがいたのである。

このPLATOで動いていたゲームというのが重要で、まだApple2も発売していない1975年あたりから、既にD&Dの影響を受けたコンピュータRPGが登場していたのである。ロバートもD&Dは好きだったが、これらのゲームにもハマっており、なかでも『Moria』『Oubliette』『Avatar』の影響は受けていたことを公言されている。
特に『Oubliette』とは内容がかなり似ていると言われる。

発売元のサーテックと縁があったのもロバートのほうで、もともと母親のジャニス・ウッドヘッドさんからの縁で、ロバートに作ってもらったビジネス用プログラムを市販に持って行ったのが始まりのようだ。
その後ロバートがプログラムした『Galactic Attack』というゲームがけっこう売れたのでゲーム会社にシフトしたようだ。
ロバートは既に学生の趣味レベルより先に進んでいたのだ。

補足事項・参考文献など

PLATO関連

PLATOがWizardryに影響したのは間違いないが、記述はあっさりにしました。理由のひとつは、これはドラクエの話くらいだと説明する必要がほとんどないと考えてます。RPG全史を語りたいならPLATOの話は必要だろうが、「ドラクエができるまで」くらいの話題には、むしろ余計な知識に思える。起源のTRPG側でさえ最低限の知識でいいのではないかと…

PLATOのゲームの存在は日本では2012年ぐらいまでほとんど知られていなかった。後から調べると80年代にもごく一部のインタビューで言及している例は見つかるが、日本の聞き手側にPLATOが何なのか理解しているものはおそらくなかった。
海外においても、2000年代くらいではあまり認識されていなかったようであります(詳しい履歴は調べてないが)

PLATOのネットワークは現在有志によって復元されており、インターネット上で稼働しているのだが、特にWizardryに影響を与えたパーティ制RPGについてはオンラインでマルチプレイヤー前提であるという重大な特徴がある。ひとりが1キャラを操作するネトゲなんである。
Oublietteなら最大12人まで同時にパーティを組めるというのだが、最低でも4人くらいいないとゲームにならないようで。
つまりPLATOネットワークが復元されている現代だが、まともに遊ぶにはPLATOにつなげる環境を得た物好きを何人も集めて同時に接続する必要が……やってる人はいるらしいが、私はそこまでする気力がありませんでした。
ゲーム内容がウィザードリィとかなり一致してると聞いても、ゲームバランスやプレイ感、ぼんやりした雰囲気などは本当に近いのかというのは何もわからずに書いてるわけである。
もっともOublietteに関しては移植版もあるので手を出してみれば何かわかるかもしれないが、私はまだそこまで手が回らない。

またニンジャとサムライがOublietteにもいたことは把握してるのだが、性能的には違うそうで。これらは現在知られているOublietteには存在するが、Wizardryの発売する1981年までの時点で既に存在していたんだろうか。わからない。調べる方法があるのかもわからない…

ロールプレイングゲームサイド

もうひとつPLATOや、Wizardry以前のRPG(1978年『Beneth Apple Manor』など)に関してあまり深く書かない最大の理由は、完璧にまとまっている文献があるためだ。

ロールプレイングゲームサイドVol.1。もう10年も前の本だが、この中の特集記事「真説・コンピュータRPGの起源 ついに全貌が見えてきたウィザードリィウルティマ以前の時代」がその研究内容、冷静な視点、あらゆる面で完全に完璧なので他の資料は読む必要がない。PLATO以外の70年代後半のRPGについても解説しています。電子版も存在し、安い。
PLATOのRPGに触れている日本語の文献は他にも少数ありますが、それらの参考文献も例外なくこのロールプレイングゲームサイドという状態です。PLATOのRPGや、1978年以降の市販RPGについては、これ以外の日本語の文献やネットの記事は読まないでよいでしょう。
それは本記事も例外ではありません。本記事でここまで書いたPLATOについての部分は本書から抜粋・省略しただけに過ぎず、読まないほうがマシなものということです。しかし完全スルーはできなかったので、仕方なく書いていることをご了承ください。何か知りたい人はロールプレイングゲームサイドだけを読むことを勧めます。
(英語の文献ならあるとは思います。またロールプレイングゲームサイドで触れていないRPG以外、PLATOのフリーセルや上海などについては、日本語の資料もなくはないです)

……なお、同じ本のJRPGの記事については、複数の問題があるので注意してください。
例として『ドルアーガの塔』と『ハイドライド』、同じ84年に5ヵ月差で登場したこれらを「タッチの差」として同時出現したみたいに書いていますが、ハイドライドはその5ヵ月前に稼働したばかりのドルアーガを明確に意識して似せてるゲームなんですよね…
2014年時点では見つけにくい情報だったのかもしれませんけど。

ロールプレイングゲームサイドVol.1、海外RPGについての記事は文句のつけようがありませんが、同じ本でもJRPGの記事は10年前のものなので普通に情報が古い&それなりに視点も偏ってるという感じになっています。気を付けて読んでください。
優れた資料に対してこんなこと言いたくないです…

Wizardry開発経緯

開発経緯については以下の2つの資料を参考にしました。

『ログイン 1983年7月号』
アンドリュー・グリーンバーグ、ロバート・ウッドヘッド、そしてサーテック創業者のひとりノーマン・サーロテック(シロテック)のインタビューが掲載されている。

多摩豊『コンピュータゲームデザイン教本』
著名なゲームデザイナーのインタビューを交えながら、著者の多摩豊氏がゲームデザイン論を語っていく構成の本です。アンドリュー・グリーンバーグとロバート・ウッドヘッド、そしてロー・アダムズにもインタビューしています。
開発経緯もログイン誌とかぶる内容が少し書かれています。アンドリューのインタビューは珍しく、彼がウィザードリィのゲームバランスを重視し、友人と何度もテストプレイを重ねたという話が218、264ページにあります。
初期ウィザードリィが高く評価されたのもゲームバランスによるところが大きく、重要な情報と思います。

なお本記事を書き始めた頃に、アンドリュー・グリーンバーグ氏は亡くなられたことが報じられました。氏の日本語のインタビューは本書などごく一部にしか見られないのですが、果たした役割についてまだ語り切れていないものがあるのでは…と思え、残念です。ご冥福をお祈りします。

このほかに、サーテック創業兄弟のロバート・シロテック氏のインタビュー動画というのを以前の記事のコメントで教えていただいたので、紹介します。

Matt Chat 244から248の全5回に渡る長いインタビュー(ぜんぶ英語)
その第2回である245の13分あたりでウィザードリィの日本展開についての言及をしており、アスキーとの契約より前の1982年中にスタークラフト社がいち早く連絡を取ってきて日本で売り始めたということを言ってます。
スタークラフト版の存在は日本でもほとんどわからない状況で、この英語インタビューは現状貴重な証言になってます…

またこの245だけでも、他に聞き覚えのない情報がたくさん出てきます。シロテック氏はBASIC時代のWizardryをどうやら知っているようです。アンドリューがサーテックに合流した正確な経緯はわかりませんが…
この動画の最初のほう、1981年4月のボストンのアップルフェストでウィザードリィの試作品を少数販売したらしい?(わたしの英語力では理解がきついので、わかる人聞き取ってみてほしい)

安田均の幻夢年代記には、1986年のアップル・コンベンションというイベント(東京?)で、会場に持ち込まれたベータバージョンのウィザードリィを見せてもらったという話が出てきます。ビショップがセージ、サムライがレンジャーになっており、難易度が非常に高いバージョンだったらしいのですが、それがこの少数売られた試作バージョンだと思うのですが…
これもネット上で実物を見たことはありません。安田氏が書いてる以上は何らかのルートで出回ったのは間違いないです。

ウルティマのはなし

Wizardry#1はまだストーリー性が薄く、道中ではキーアイテムをもらう程度しかストーリーがないが、これでもウルティマ1に比べればまともだと思う。

ウルティマ1もストーリー性が薄いゲームなのだが、何の罪もない道化師をいきなりブチ殺す展開もかなりすごいが、とりわけすごいのは宇宙編だ。物語上ほとんど何の必然性もなく敵の宇宙軍と戦わないとゲームが進まないようになっており(いちおう説明書にはモンデインと同盟を結んだ敵とか書いてある)、スペースシャトルをそのへんの店で買って宇宙に飛び出し、スターラスターの試作品のようなシューティングゲームをクリアしなければならない。RPGですらない。


※画像はGOG.comのPC版。主人公が街で買ったシャトルが外に置かれてる図。

ウルティマ1の1/3くらいは宇宙パートだ。残りの1/3が2Dの地上マップの探索で、1/3が3Dダンジョンってところです。
どう考えてもウルティマ1は、まともなファンタジーRPGではなかった。これは当時のゲームだからという話ではなく、当時でも異常なゲームだったと思える。前作アカラベスは文句なく正統派ファンタジーだったし。
ゲームバランス、ゲームの進行もかなり大雑把。ムチャクチャすぎて面白いことは否定できないし、実際81年当時は高く評価されたからその後があるのですが……仮に87年ごろにファミコンに移植されていても、Wizardryと違って難しい評価を受けたのは想像に難くない。だから3から移植したのでしょう。
わたしもまだウルティマ1しかやれてないのだが、2や3でだんだん状況が変わってくる、SF成分が薄れて今のウルティマになっていくようではあります。

日本展開のウルティマ知名度ウィザードリィと比べて圧倒的に落ちるのは感覚としてはそうなんですが、シリーズ自体は4以降もファミコンスーパーファミコンに移植は続いており、ある程度は売れてたみたいではありました。

ディスクシステムについて

ウィザードリィファミコン移植は87年まで無理だったと本記事では書いたけど、ディスクシステムならセーブ機能はあったので頑張ればできたかもしれません。
しかしディスクカードの容量は1メガくらいしかなく、ロード時間もカセットより遥かに長いので、仮にできていても今のような高評価は得られなかっただろうということで。

ウィザードリィ友の会・総集編4コマまんがスペシャル』(1冊目)に、ウィザードリィをFFドラクエと比較する記事があるのだが、そこのついでにディスクシステムの『ディープダンジョン』(スクウェア)をディスってる文章が出てくる。ファミコンウィザードリィより遥かに厳しい条件のハードで、1年も先に発売してるディープダンジョンにマウント取ってるのを見ると、いろいろ厳しい感情が浮かんできますね…
この記事書いてる人、FFを一本道だと揶揄してるんだけど、FF1がウィザードリィへのリスペクトあるゲームなのも素で知らないみたいだし、「初期エフエフとか知らねーけどスクウェアは悪の軍団なのでディスってもいい」という風潮、まだFF4も出てない1991年には既に発生していたことがわかる。
厳しい。

その他参考文献

『みんながコレで燃えた!NEC8ビットパソコン PC-8001PC-6001
1984年の国産RPG『ポイボス』はログイン誌のウィザードリィの画面写真を参考にして作ったもので、実物はプレイできていなかったようです。
ところでこの本もまだPLATOは認識されていない時期のもので、『Rogue』(1980)を始祖RPGと誤認して重視してる箇所がちらほらありますが、やはりアカラベスのほうが古いです。

『Apple2 1976-1986』
主にApple2のハードの解説書ですが、ゲーム機としての側面も深く掘り下げており、ソフトの紹介もあった。スタークラフトにも言及があって、パソコンショップだったというのが初めて認識できた。
互換機の話題も多く扱っている本ですが、残念ながら秋葉原のモデルについてはよくわかりませんでした。

ウィザードリィ プレイヤーズフォーラム』
44ページに、当時出ていた日本版ウィザードリィの販売本数が掲載されている。

『復活!ファミコン通信 <創刊号~第3号>』

電子版で完全復刻されている最初の3号のファミ通。今読むと新発見が山ほどあるぞ

『PLANETS vol.7』
堀井雄二のインタビュー。堀井さんがD&Dや指輪物語に疎い話はここに。少しは知ってるようです。

ファミコン通信1988年17号』
寺田憲史遠藤雅伸の対談が掲載。ダイヤモンドの騎士の移植が後回しになった経緯と、リルガミンの遺産もアレンジが必要という話を書いてる。

以前の記事でも言及しましたが、FF2についてもかなり重要な情報が出てきます。

俺の書いた記事:

ファミコンRPGの時系列情報はわしが自分でまとめた。なげえ記事だぞ。

あとがき

浅い話題だけしか書きたくなかったので浅瀬編としました。
本記事に書いてあるのは全て調べればすぐわかるレベルの浅い情報です。よろしくお願いします。
浅瀬で終了ですので続編は書きません。