神殿岸2

2と言っても実質1.5みたいなもの

宇宙一ひどいゲーム史

ドラクエ史の話など書いていたが、

この記事を書いているときにも何度か頭をよぎったのだが、数年前にいろいろあって読むことになった本があって、それ以来わたしはゲーム史というものに対する理解が変わったという話をしたい。

キネ旬総研エンタメ叢書 “日常系アニメ”ヒットの法則』(2011年 キネマ旬報社

タイトルからわかるだろうがゲームの本ではない。著者は「キネマ旬報映画総合研究所」となっており、ゲームの専門家が書いたものではない。
と、書くと語弊がある。
正確に書くと、著者はゲームの専門家ではないし、アニメにも漫画にも映像業界にも何も詳しくない。これは何者でもない何かが書いた虚無の書であり、あるのはキネマ旬報という、それっぽい名前のみの地獄。
この1冊の暗黒空間の中に、約16ページという少なくない分量でゲーム史を扱っているパートがある。
なぜアニメの本でゲームの話を?
それは、日常系アニメの隆盛にはゲームも関わってくるからだ。
著者はそうだと思っている。ぼんやりとね。

この本は全体が地獄なのだが、第2章は日常系作品と同時期のサブカルチャーの動向を追う内容で、911だのポストモダンがなんたらかんたらとアニメと大して関係なさそうな事象を6ページほど適当に並べたあとで、p45からいきなりゲームの話が始まる。
アニメ近隣のサブカルチャーのひとつとしてのテレビゲームの80年代からの隆盛。ドラゴンクエストファイナルファンタジーのタイトルは「テレビゲームに全く興味のない人でも聞いたことくらいはあるはずだ。」と著者は言う。
つまり、著者自身がそうなのだが。
ロールプレイングゲームアメリカで考案された「テーブルゲーム」から生まれたという説明を一応入れたあと、ドラゴンクエストなどのヒットで普及したという言い方をしている。そして「テレビゲームにおけるRPGの特徴は、映画のように起承転結のはっきりしたストーリーが用意されているという点にある」「しかし、このゲームの持つ「物語性」も、その位置づけが徐々に変化していく」と説明。なんとなく雲行きが怪しくなってくる。
本書は全体を通して、日常系アニメには物語性は存在しないのだという、ネットに書いてあった安易な論説を真に受けて書かれている。つまり著者は日常系アニメのことを舐めているのだが、ドラゴンクエストがストーリー性のあるゲームであることは知っていたようだ。
そこで登場するのがポケモンだ。ドラクエと同じくRPGである『ポケットモンスター』だが、ストーリーの完結だけではなく、図鑑の完成という目的がある。ストーリーが終わってもプレイし続けることができるし、図鑑の完成には通信も必要。そこにプレイヤー同士のゲームを通じたコミュニケーションも成立する。

>これは、ゲーム中において「物語の完結」が、「コンテンツを味わいつくした」ことと同義ではなくなったことを意味する。物語というものの絶対価値が、揺るぎ始めたのだ。

クリア後にアイテム探したりする遊び方はドラクエにもあったし、むしろドラクエよりストーリー性の薄かった古典RPGのほうにそういうのがあったのだが、そこまでの知識はもちろん著者にはない。
世界的ヒットとなったポケットモンスター。その要因は「魅力的なストーリー」だけではなく、「「交換」や「バトル」といった優れたコミュニケーション性にあったことは明白だ。」と著者は言う。それは、まあそうだと思うが。

>1990年代後半に『ポケットモンスター』にハマった小学生は、”物語主導でないRPG”を、ごく自然なものとして受け入れた。その数年後、彼らが中高生になって登場する日常系作品を受け入れる感性は、このようなところでも育成されつつあったのだ。

おわかりであろうか。物語性を失っていくという時代性。『あずまんが大王』などのゼロ年代初頭の日常アニメの台頭を支えたのは、ポケモンブームを体験した子供たちだったのだ。
どう見ても不自然な説だが、世代だけ見れば合っているようだ。

もうひとつ強調しているのは「コミュニケーション」である。物語性ではなくゲームキャラクターとコミュニケーションそのものを主題とするゲーム『どこでもいっしょ』。確かにこれは日常系アニメと近いかもしれない(私はやったことないけど)。

「「ひとりでストーリーを終わらせることだけが、ゲームの楽しみ方ではない」という流れは、いわゆる「オンラインゲーム」によって、より顕著になる。」として、『ウルティマオンライン』を紹介。プレイヤー同士のコミュニケーションできる内容と共に、「起伏豊かなストーリー(イベント)を追わずとも、ゲーム内で「日常的な」「生活」ができる」と、うまいこと言ったつもりなのだろうか。
他にあげているタイトルがFF11とRO。「ゲームの目的としての「物語性」は希薄になり」と、本書の前提である物語性の喪失につないだ感を出していく。
(私は本書で上げてるゲームはやったことないやつばっかりなので、これらMMORPGのストーリー性が本当に弱いのか怪しむのだが、わからん。著者も私同様にプレイしてない感は強い)

ついでにモンスターハンター異世界を楽しむゲームとして近いとして紹介。
そして年表にまとめている。

要するに、著者の乏しい知識の中にあったゲームタイトルに、「物語性」「日常」「コミュニケーション」などの参考文献に出てくるワードだけの雑認識をくっつけて、順番に並べただけだ。
プレイヤーとゲームキャラとのコミュニケーションと、友人とデータを交換するコミュニケーションと、キャラクター同士のコミュニケーションだけで話が回る日常アニメ、どこが違ってどこが類似しているかという点を深く考えることなく、ただ「コミュニケーション」という言葉だけを見ている。
ドラクエに触れた理由も、ポケモンRPGだというつながりのみ。そして話題がいきなりドラクエから始まることから、著者はファミコンより前にこの世にゲームソフトが存在したことを認識していないし、ファミコンに限定してもドラクエ以前にストーリー性があるゲームが存在したことを知らないし、おそらくファミコンがどういうものかも知らないし、ファミコンRPG以外のゲームが存在したことにも気づいてない
ストーリーはRPGだけにあるわけじゃないこと、物語性の薄いゲームはRPG以外のほうが多いだろうこと、コミュニケーションという点ではリアルでの情報交換や対戦ゲームなら昔からあること、
いや指摘事項が多すぎてどうすりゃいいかわかんねえよ。
こんなレベルの知識でゲームのことを何か書こうとするな
これで金を取る気か。

ここで終わらず、著者は乏しい知識でギャルゲーの話を始める。ギャルゲーもまた「コミュニケーション」。
恋愛シミュレーションは、日常系アニメだけでなく「1990年代後半から登場した美少女アニメ(どれのことだろ…)にも影響を及ぼしただろうと書いている。どっちかというとギャルゲーの話につなぐためにドラクエから話そうと思ったのかなこれは。
ときめきメモリアル』のヒットを紹介したりしてるが、まあ著者のギャルゲー知識は私と大差あるまい。あずまきよひこToHeartのアンソロなど書いてたという直球の事実に触れてないのは気になるが…
コンシューマーの1997年の売上ランキングに美少女ゲームは2本しかランクインしていない、と著者が言ってるのだが、それは正しいのかこの著者の知識でどうやって「美少女ゲーム」と分類したんだ?などの疑問はあるし、たぶんかなり大雑把な理解と誤解で書いてるんだろうなと思うが、私もギャルゲーについては深くツッコめる知識がないのでやめておく。
気になる人は本書を手に取って立ち向かってください。

アニメに詳しくない

今回の記事ではあまり詳しく触れないことにするが、ゲーム以外の部分も相当ひどい本です。私自身も日常系アニメに詳しいほうじゃないが、そんな知識がなくてもひどいことはわかるぞ。
日常系は現実的な舞台であるという思い込みの定義をもとに、『ラブひな』が「異星でもなければバトルがあるわけでもない「現代の日本」」であることが日常系につながるというのだが、スーパー系の発明キャラがレギュラーにいるのをこいつ知らないで書いてる。
アニメにもマンガにも大して詳しくない中で、いきなり聖地巡礼のことを書いてみたり、ギターが売れた話を書いてみたり、初音ミクのことを書いてみたり、アニメの売上について雑なことを書いてみたり。
思いついたことを順番に書いてるだけという感じの本です。

その中で日常系の定義については、まず間違いなく当時のWikipediaの記事を参考にしている。p23でもその記事に言及してる。
この記事というのが問題で、宇野常寛前島賢黒瀬陽平東浩紀などが書いてた評論を編者が(おそらく意図をもって)抜き出し、曲解も交えてまとめたもので、日常系作品には物語性がない、内容が薄いということを過度に強調するという酷いものだった。
特に宇野常寛が空気系について言及してる評論は、原文を参照してみたら実写ドラマや平成ライダーに対する言及のほうが圧倒的に多いうえ要約も難しい厄介な内容だったのだが、宇野常寛がむしろ日常系作品についてかなり好意的に書いてたという簡単な事実だけはWikipediaには全く書いてなかった。
編者の思想に都合のいい部分だけ抜き出して、宇野氏が日常系アニメを舐めてるような印象に変換されてたのだ。

本書の著者は、日常系アニメは物語性を排除したものだというWikiか、またはそう言ってた論者も参考文献にいたのかもしれないが、そうした説を言葉通り真に受けてしまってる。日常系アニメには物語性がない、ストーリーが薄いのだと。
本書には『けいおん!』TBSプロデューサーの中山佳久氏にインタビューしている箇所がある。またこれがまとまったインタビューとして載せずに、本文に抜き出してる形式なのだが…
本書の最後のほうのp181
>そして中山氏は「『けいおん!』を観て、”何も事件が起きない“と言う人たちは、作品を短絡的に見ているだけなのではないか」と反論する。
それ言ってるの本書の著者でしょう。

ゲーム史に立ち向かうということ

かなり前の話だが、問題のWikipediaの記事については私が別アカウントで介入していることを正直に書いておきます。現在は…前よりマシだとは思うが良いわけではないね。
この別アカウントの活動については今までブログには書いてませんでしたし、これからもあまり書くことはない。向こうから何度もトラブルが持ち込まれたのもあり、簡単にリンクできないようにしていることをご了承ください。

このひどい本と遭遇したのはゲームの話が読みたかったからじゃなく、そのWikiの関係なのだが、偶然遭遇したこの本が宇宙一ひどいゲーム史、戦闘力にして宇宙の帝王クラスであろうという意識がそのときあった。
しかも出版社もキネマ旬報。有名な出版社だし、レビューの点数も低めだけどそこまで変なことは書いてないだろうという油断があった。
この俺が油断したのだ…

そういう認識を数年前に持ってたおかげで、昨年あたりのゲーム史本のなんやかんやを私は冷めた目で見てた。もっと酷い本は世の中にあるはずだけど叩かれてないじゃないか。
あの騒動で発言してた人たちは、スーパーマリオを見たことないレベルの人間が有名な出版社で偉そうにゲーム史を書いてるかもしれないという脅威が想像できていない、と思ったのだ。
有名になっててて叩きやすいやつを叩いてりゃ、そりゃ有利は取れるけど、その有利にどれほどの価値があるというのか。
それを言うなら、正義に殉ずる気力があるなら、その辺に潜んでいる野生のフリーザだって見つけ次第全部叩き潰していくべきではないのか。いや、そんな不毛な作業にエネルギーを使う価値があるのか。
そのぶんをもっと巨悪、人類に対する敵との戦いにぶつけるべきではないのか。
戦うなら悪と戦え!!!!(東島丹三郎)

そんなような思いを抱えていたときに第2のフリーザと遭遇してしまったのである…日経BP『日本ゲーム産業史』。各社の大物にインタビューをかなりやって書いた本なのだが、表紙にそのことは全く書かれてなく、無知なライターが勝手に大物の発言に補足を入れて再編集している本である。
ライターの知識は、セーブという用語の発祥がFFだと思ってたり、任天堂の最初の家庭用ゲーム機がファミコンだと思ってたり、ハドソンがコナミになってること明らかに気付いてなかったり、バンダイのゲームでガンダムの話ばっかりでドラゴンボールについて全く書いてなかったり、カプコンコナミの代表作がどう見てもライターの思いついたやつが並んでるだけだったり…
総ツッコミはしないぞ。
こんなクソライターの本なのに、各社の大物多数にインタビューしてるせいで新情報らしいものもどんどん飛び出し、その価値をライターが全くわかってないのでライターの付け足した誤情報と同列で流されていくという、本当の意味で残念な本だ。コーエーレベルファイブガンホーなどまともな箇所もあるがこれではおすすめはできないし、なんでこの本が話題にならず埋もれているのか僕には全くわからない。
『日本デジタルゲーム産業史』(人文書院)というまともな本とタイトルがそっくりなのも大変厄介だ。

本書のFF関係の部分については、前の記事にちょっと書きました。

この本もフリーザに匹敵する潜在能力は感じた。
まだ宇宙は広いのであり、俺が知らない野生のフリーザはたくさんいるのではないか…?
世の中にはフリーザよりもっと上のやつがいるかもしれねえ。
そんなもんと戦いとうない。

無知を知る

日常系アニメヒットの法則に戻る。
冷静に考えるが、日常系アニメと、クリア後も続くゲームであるポケモンにどの程度関係があるというのかということであれば、アニメのポケモンがある意味でサザエさん状態で永遠に続いてるのは原作がそういう広がりを許容できるゲームだからだ。それは日常系作品と類似があると言えなくない。
その程度の類似を接点として許容していくと、この世の全てのものをつなぐことができると思うが、仮説としてなら「ポケモンあずまんが大王らきすたけいおん」のようなルートは、ギリギリ破綻してるくらいと評価していいだろう。
Gジェネの開発ルートでも厳しいな。

こんなひどい歴史書からも得られる知見はあって、この程度の著者でもドラクエはストーリー作品だということは知っていて、ポケモンは通信などを使って図鑑を埋めるゲームという知識は持ってるということだ。
本当にファミコンが何だか知らないレベルの人でも、ポケモンが何かは知ってたんだ。ポケモンに触れないビデオゲーム史というのを幾つか見てきたが、それらと接するたびに本書が頭をよぎっている。こんなクソ本でも知ってるほどの歴史を本当に触れなくていいのか。マイナー武将ばかり見て織田信長に触れない戦国史みたいなもんではないのか。
冷静に考えると、あずまんが大王の読者にもポケモンをやっている人はたくさんいるだろうし、FF7をプレイした人も少なくない割合でポケモンをやっている。客層が少しでもかぶってればポケモンをやってるしアニポケも見てる割合は多いだろう。もちろん織田信長のことも知ってる。大河ドラマとかめっちゃ見てるかもしれない。
しばしば本書のようなオタク歴史本が当時の事件などに雑に言及しているのは、実際こういうつながりも意味はある、ないとは言えないからだ。そういうイメージの強力な実例として本書があった。世の中の全てはつながってるのであり日常系アニメの話をするならポケモンは明らかに関係ある。
ただもっと強く関係あるアニメやマンガがいくらでもあるに決まってるので、選んで書けというだけの話だ。
ちなみに僕はファミコンは知ってるがポケモンやったことない。

もう一つ思ったのは、ゲームに詳しい人というのも、結局は知ってるゲームの数が多いだけかもしれないということだった。
この著者は知ってるゲームが極端に少ないので、ドラクエポケモンで直結させるルートしか知らなかった。登場機体数が20機くらいしかないGジェネだ。
だが、本書と比べて詳しいと思われるゲーム史も、実際は間にクインティだのサガだのを足して、知ってるゲームやハードの知識をGジェネのようにつなぐことしかしてないのではないか?ということだ。
全部の歴史本がそうだとは言いませんが。歴史書の書き方ってのがわしにはわからん。

これ以上特にないのでおわり。